地上最強のブログ

しばいてくぞ

誰も考えんこと (2)

 

前回の記事から

るのでない。お前のキレーキタナイ・イイワルイはすべてすべからく観念だ。お前は観念の中に生きている。そうやって菌ガー菌ガー菌ガーガーの生化学的にはナンセンスな清潔衛生話にうつつをぬかせる。アホとは、観念と信念と思い込みの中にしか生きれずここに頭突っ込んで尻出しているバカなのである。

だから手で何かをするというのは廃れていき消失していくべきオワコンなのであり、たとえ手で何かせざるを得ないときにも、ほとんどの局面で手術用なみのゴム手袋着用義務なのである。手はオワコン、忘れんな。ロボットが寿司を握り料理を作ったら奇態だろうか、そうだろうなお前の観念の中ではな。実際にはロボットの金属の手のほうが人間の油脂まみれの手よりも良(よ)いに決まっている(「良い」は「いい」とは読まないぞ)。ロボットがあんなことやこんなことまで … あああ近い将来には …… いや、それでいいのである。金属やゴムや樹脂やプラッチックや塩ビが触ってくれたらいいのである。お前の手よりはキレーなんだよ。そう、スカイネットでシンギュラリティでいいのである人間という誤謬まみれのアホに社会や製造や経営や運営や立案や政策や司法や統括や開発や調理や制作や算出や提議や勃起や愛撫やシックスナインを任せておくよりは、AIや機械のほうがずっと好ましい。人間は運転しないようになっていけばよいのである。(と述べたのはもちろん人対物の接触場面に関してであって人対人場面でならなんぼでも素手であったらいいこっちゃであろう。いずれにせよ釣り銭手渡しというのはやめろ。)

 

もう一度言うとアホとはてめえのオツム内の観念と信念と信仰と教義の中にのみ住んで現実実物実際日常の物や事や人や行を具体的にそれに即して見るということが出来ない生き物のことである。こいつらはアタマでっかちなのである。無知の愚昧ほど、アタマに偏っているのである。よく知っていて考えている者ほど、逆にアタマから解放されているのである。

 

具体的に・ちょっと頭冷やして・0.010094秒立ち止まってカンガエてみたら、おかしいことだらけである。

文章には「行間」があるらしい。

Eine Minute lang blieb der Lauf meiner Flinte ungewiß zwischen dem Menschen und dem Hirsch mitten inne schwanken – eine Minute – und noch eine – und wieder eine. Rache und Gewissen rangen hartnäckig und zweifelhaft, aber die Rache gewanns, und der Jäger lag tot am Boden. (Schiller, Der Verbrecher aus verlorener Ehre)
(この野郎にするか猟獣にするか、1分ほど撃ち迷います。さらに1分。さらに1分…。復讐もありますが良心も呵責します…。結局前者だったわけで、野郎、死体になりましてね。)

犯罪者心理について先見的明智を冒頭に述べながら、自分の犯歴について哀れな自分を憐れんでもらいたがる私ハカワイソウナノデスの阿呆ボケを主人公にしてしまって台無しにしてしまっているシラーの「誇りを汚された犯罪者〔失われた名誉ゆえの犯罪者〕」の1節だが、そんなことはどうでもよくて、今見たいのは、見ての通り主人公がにっくき宿敵を眼前にしているのだがこれを撃ったとはどこにも書いていない点である。もちろん撃っているのだが、それをどこから分かるのだろうか。分かってしまうのである。行間を読んでしまっているのである。そんなことは勝手にやってしまうことなのである。そして、別に書いてはいない=印刷されてはいない=表示されてはいないところの情報を引き出すというのならもうどんな何の場面でもやっていることである。というかほとんど毎ページいや毎行でやっていることだろう。《この本は行間を読みます^q^》:しかし行間を読まない文章などむしろ存在しない。

しかも「行」という書写形式がわりと近現代のもので(なのだろう、知らん)、「行」「間」がえらい偏った限定的な言い方だ。「行」?お前はその語しか知らんのか?そんなんゆなら「字」間もあるし「語」間もあるし「文」間もあるし「頁」間もあるし「節」間もあるし乳首も浮いてるし、章ごとに場面切り替わりするなら「章」間だらけになる。書いてはいなくてもそれが起きたことは分かる文章、映してはいなくてもそれが起きたことはわかる映画。文章とはすべからく、映っていないものを補いながら観るもの、映画言語的なものなのである。無意識に無数の補正と補完をしながら文章を読むのである。そんなもん今さら「行間」とかホザいて取り立てて取り立てることではない。

じゃあなんでクソレビューとかで行間行間言うのかというと、こいつらはギョーカン・ヲ・ヨムという成句表現をしているだけ、それしか出来ないだけの舌足らず、或いはもっと悪くは、そんな言い方がしてみたいだけのゴミ文垂れ流し機なのである。こいつらが言いたいことは、本書の成立に関しては著者と出版背景の市場力学とか大人の事情とか子供の痴情とかがあるんでしょうあったんでしょうなあというようなことである。だったらそう言えばいいのだが、アホは、カッコつけて「行間」だの何だのと言いたがるのである。この記事で詳述したことだが、アホは、特定の言い方をしてみたいだけなのである。《それ言いたかっただけやろ》というやつである。そんなことならまさにチラシ裏でやれというものだが、アホは出て来たがるのであり公衆に見せたがるのである。ロクなものを持っていないアホほど、そうである。もうこいつらに猥褻ぶつチン列罪を適用しろよ。

 

文章論ついでに1個言っとくと、自分がこんな目に合ったということを物凄くまたはアホみたいに滔々弁々と語る奴というのがあって、どんな被害に遭ったのかをコトの始めから語り起こしてキャラたちとストーリーを一生懸命織り込んで(読まされる必要の全くない具体的名詞をさんざん散りばめて)こまごまこまごま懇切丁寧に報告し開陳するもので、もはや自分の苦痛や被害とそれを喋ることに性的快感すら覚えているとしか見えないほどのアホなのであるが、同類として、バイオレンス系の文章で自分が殴られるなどした時にどんな感覚がどんな定量でどんな持続で起きたのかを料理評論と見紛う文章で述べ立て連ねる奴というのがある。こいつらの文章を読まされて読者が思うことはたった1つ、「もうワカったって!!!」「もういいから!!」ということだけであろう。人間社会には被害や加害がある。人間という生物には暴力という宿命がある。そういうことがあった場合には当事者や場面含めその事象全体の理解が必要である。その事象の中で自分が・何をされたかをただひたすら喋り続けていても別に何も分からないし何も進まない。自分に何かをしてきた相手にもその人間がありその文脈がありその心境がありその状況がありその事情がある。いま仮に特定の食品について伝える上でそれが自分の口内に入った時の感覚だけをエンエンつらつら喋り倒すだけでその食物の外見や原料や食器や産地や背景や意義や乳頭について一切一言も言わなかったとしたら明白にただのアホであろう。そういうことだ。

 

いわくつきの場所というのがある。それはそうと残留思念というのがあって、原初的な感情または怪談に適合する感情だけを喚起するもので、483+72の思念とか購買欲とか交接欲の思念とかは(都合よく)残留しないのだが、いずれにせよ、感情Xを喚起しやすい場所はそういう場所であるがゆえにその感情Xを喚起しやすいというトートロジー以外の何でもないのがこいつである。それはそうと嫌なことが有るとそこに嫌な想いを持ってしまうものだが、実は非常に愚かである。たしかに事件が起きやすい・犯行がなされやすい地形的都合のいい場所というのはあるのだろうが、自分個人に嫌なことがあった場所というのはそんな話とはまったく別の話である。そして実は経験則で誰もが勘づいていることだが、嫌なことがあった場所でまた嫌なことがあることはまず無い。というか無い。断じて無い。何が何でも無い。不快な奴に不快な思いをさせられた通りやフロアや歩道やホームや土手や〇〇場や〇〇店などを自分の中でいわくつきの呪わしい場所にしてしまいがちだが、そこで同じようなケースが再発することは統計的絶望的に無い。気付いてるよな。何なら、あんな目にあったあの場所で同じ目にあったら今度こそ!と意気込んだりもするのだが、空振りにしかならない。不快事や災難とは常に必ず準備していないところに来る。もう場所を呪うのをやめよう。それはそこでこそ二度と起きない。場所には何も宿らない。

バラの儀式公演13 美しい狩り(Type A)

美しい狩り

  • AKB48
  • 発売日: 1970/01/31
  • メディア: CD

 

すぐ物に名前を付けるきっしょいバカというのが居る。居るというより人類全体がそうだという問題で、問題も問題の大問題である。なぜかというと気色悪いから。リンク先記事に書いているような台風に名前付けるアホ国民などはわずかごく一例に過ぎない。他にまだまだ、暦に人名神名を付け抽象名(仏滅大滅吉滅)付け動物名付け、方角にまで名前を付け、やがて端末機や筐体に名前を付け、消耗品や商品に名前を付け、乗車物移動物に名前を付け、果てはベイ図だの便図推定だのサラリー幾何学だの概念にまで名前を付けるアホザル、こちらが名前大好きのアホ生物・ヒトサピエンスでござい。次回ローンチされる新製品はベティか?スーザンかエディかマーフィーか?気持ち悪いわボケ!!!

人間は擬人化するものなのである♡そんなゴタクで済まんわボケ。そんな確認して済む問題ではない。これは、気持ちが悪いのである。ほっといていい事ではないし微笑ましい事ではない。

もっと言いにくいことを言っておくと、ハッキリ言って動物に名前つけるのも明らかにキモい。お前はその巨大なトドが本当に「ヒナちゃん」「小鉄くん」に見えるか?オイ毛糖ども、おまえらにはその猿人化石が本当に「ルーシー」に見えるのか?そいつは生前「ルーシー」という語の語感にぴったりそぐう見た目をしていたのか?おまえは大型獣脚類が「スー」と呼ばれることに、PC筐体が「マック」と呼ばれることに、本当に納得できるのか?望遠鏡や掃除機を人間の名前で呼んでいるアホどもに違和感をマジで全然感じないか?いいか、犬は、犬だ。源太やサムやエイミーなわけがない。そう呼んで気色悪くないわけがない。いい加減目を覚まそう。特に「人」名を人以外に付ける事がそうだが、物に名前を付けるのは気持ち悪いことなのであり、その名前はどうしたって気持ち悪いものなのであり、そんなことをするのは、あらゆる物に名前を付けたい原始時代の原始人の呪術世界呪物信仰の名残りなのであり、とっとと廃絶してしまったらいい野蛮で時代遅れのオワコン風習なのである。

もうそれならいっそ字にも名前つけようか。今日から「雨」という字を「ジェシー」と呼ぶ。「針」は「スティーヴン」だ。「外」が「ケイト」で「秒」が「ビル」、「低」が「タカシ」で「深」が「タカコ」、「conclusion」が「モモコ」で「auf」が「カンムル」だ。そうして何がおかしい?

言いにくいついでにもう1個言っとくと、ここで言ったように、さらにここでも言ったように、音声の語感からカドを取りたがるきっしょい国民があって、そのキシょさがどこまでかというと、何といわゆる「濁」音のカドまで取ろうとし出す始末で、このナヨナヨゲロゲロ民族にかかると、「頃」が「ろ」に矯正されてしまい、誰もそう発音しないのに「〇円らい」と書かれてしまい、ナヨナヨきっしょい「スムー」「さい」がウレシがられてしまう。正しくは、「去年の今ろ、つまり3月のろのサッい日に、子供らいのムースな…」である。