地上最強のブログ

しばいてくぞ

めんどくさい自分病患者たちへ (5)

 

前回の記事から

まり聞いてるほうが自分の初めて聞くことにまで(!)うんうんそうそう的な相槌を打ち出すことがたまにあるものだ。やがて、そいつはおろか世間も知っていない独自の見解を披露してすら、このアホは、そうや そうやな そうやねん という相槌(?)を繰り出してくるようになる。おまえの知らん話だろが!!なんでおまえが熟知しとることなっとんじゃボケ!!!!勿論このアホは「うん」とか「そう」とかの日本語の意味を忘れてしまったわけではないだろう。では何が起きているのかというと、思いつかれがちのくだらん解答すなわち事実無根のほうから述べておくと、このアホはもう聞き疲れててうわの空だというものである。一方実際に起きていることは何なのかと言うと、このアホははじめっから自分の知らない新情報を受け入れる気などなかったのであるということであり、「相手の」「話」「を聞く」気などなかったのであるということであって、こいつは、結局相手が何を言ってもたとえ自分の親を殺した自白をし出してもビクとも驚かずうんうんそうやなそうやねんとホザき続けるのである。なーも聞く気ないのである。相手に感心する気がツユもないのである。いかなる「新」にも開かれる気がないのである。自分だけが一番、こいつは自慢聞かしたる相

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手、こいつの話は聞かん、という心積もりで来てやがったのである。言うまでもなく、この何でも知ってる君のボケが、こういう者、むしろ気の毒な被害者、を生み出すのである。げに、被害者加害者を容易に取り違えない奴のほうがいないものである。)

もちろんコトは発声器官を使った会話の場面だけではまったくない。書かれたものに関してもハナシは同じで、有り体に言って我々は文章を読みなどしない。読むふりをしながら、読んでいると自分をすらダマしながら、やってることは、文章の中で、自分に通じるか通じうる情報に反応しているというだけのことである。ただ、記載されてある情報量が、会話という退行した劣った言語手段と比較すれば多量なのであるから、自分に通じうる情報つまり新情報にして学習事項たるものが相当量あることになる。読み手側にしたら書かれたものとはそんなものだ。で、書いたほうとしてはこれでいいものだろうか。誰も全部全体など受容していないのである。そんなんめんどいのである。しかるに全体全部の理解しかその1冊その1本その1記事その1コラムその1ツイートの理解はありえないのだから、そうなのだから、結局、何を書いたところで、書いた本人の思い通りに理解されることなど絶えてないことになる。ということを言うと、アホがたちまち脊髄反射で、《ああいいさ固よりそのつもりさ人と人のやりとりなんてそんなものさ完全なコミュニケーションなんてもちろんありえないよどう受け取られるかなんてのは「他者」に委ねられているのさ》などと、自己欺瞞の自分嘘つきの強がりの開き直りを繰り出すものなのだろうが、そんなタワゴト聞いていない。理解されるつもりもなく書いている者など居ないしそんな著述行為 原理的にありえない。とはいえ、他人の世界にガッツリ真摯に付き合うのはいともめんどくさいものであり、他人とはめんどくさいのである。

とにかくそうであるから、発表したモノに対してでも発表する場ででも何でもいいが、他人が反応を示した時やレスポンスしてくれた時や何か言ってくれたときやいやそれどころか好評を博した時にさえ、実は、期待できるものなど何も無いのであり、期待している何も返っては来ていないのである。そいつがそいつワールド内で勝手に誤読しているだけなのである。そいつはそいつのことについて反応しそいつのことについてくっちゃべっているだけなのである。相手に付き合うのがめんどくさいから。

めんどくさがる奴はテコでも動かせない。何てめんどくさい奴なんだ。

ところで、著述や発表ということだが、例えば、述べられていることに関して似たようなものがあるとか斯く斯くのものに関係するとか言う者が出て、しかしそいつが挙げる似たようなものFや関係あるものTが他のものPやSでも別に同じやないけということがよくある。本Xから引用して来ているがこれって本Bから引用しても同じことだしこっちのほうが先行しているのだからこっちから引用したほうがいいではないかということも、よくある。うむ、なぜ、斯様なドマヌケな関連付けや引用をするのか。これもつまりは、自分しか見えていないからである。相手の述べていることに対して(特に)自分が思いついたことを言っているだけだからである。自分の知っていることの外に出る気がないからである。ウィトゲンシュタイン仏教などとさんざんホザきよるが、別に仏教に似ているかこれに通じる西洋思想など太古より大量にある(ついでに言っとくが西田哲学がヘーゲル哲学以外に見えたことが自分には一度もない;両者を直接に関係づける論がほぼまったく存在しないが)。特にウィトゲンしか思いつかない奴と奴らがホザき作ってきた言説に過ぎない。「〇〇ⅩⅩ」、こんな恣意的な繋辞は、言ってる奴のオツムが喋りたいだけのものなのである。と言うと、そんなこと言い出せばと例を70000000000個ほど思いついただろうが、是非そうしてくれ。今自分が思いついた例から自分で考えてくれ。

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以上述べてきた自分の世界に凝り固まっているどうしょうもない奴だが、これだけはしっかり注意してほしいのだが、こいつらは自分の中の自分ランドの中の何がどないかということがすべてであって自分が納得し自分が「知」(だとして)っていればそれですべてのすべてでありそれ以外の何も聞きたくないし知りたくないし欲しないという自分病マシンなのである。例えば次のような奴はいま思いついた架空のバカなのではなくて残念ながら実際に居た奴なのだが、すなわち、(自分もやられたくないことではあるが)こやつが知るわけのない或る事柄について《当ててごらん》をやってしまって、してこやつが考えている1秒ぐらいの間にこちらがうっかり答えを言ってしまった、するとどうなったかというと、こいつは、こちらが口を滑らした答えが聞こえていてもう回答が出ているのにもかかわらず、もう考える余地がないのにもかかわらず、なんと、今のいまだに、ちょっと待って当てるわと張り切ってるのである!!おわかりだろうか。こいつは、おそらく残念ながら気が狂っているのではない。アタマはふっつーの人間である、どうやら。しかもだ。←↑と書いたことに関して、書いた日本語が読める者なら、そんなヒドい奴おらんやろ、そら相当やな、等と思っているだろう。が、つらつら思い出せば、これと同じかこれに近いことをお前の知人もおまえ自身も自分も誰でもやったことがあるしやっていることだと、思い出されてしまうのである。思い出されんよという重症の手遅れには話していない、帰れ。さあ考えてみよう。むしろ人が情報や知識に接するときの本来の態度がこのようなものなのである。客観的に事実として真か否かということをなーも見ようとせず、見るものは何と自分の中なのである、正答が出ている時点ですら!!そう、自分がまったくアンテナ張ってなかったことであろうと、自分の考えたことのないことであろうと、自分の予測しなかったことであろうと、ソレはソレであるのだからソレをソレとして聞き読み知る、などということは、おそらく誰もしないししたくないししていない。そうではなくて。自分が張ってるアンテナに食い込むぐらい引っかかるもののみに反応し、自分の考えたことのあることのみに存在を許可し、自分の予測以外のいかなる何物も見ざる聞かざるシコらざるのであり、事柄が自分の気にくわんかピンとこんものなら事柄自体ではなくて自分のオツムの中を優先しこちらに事柄を合わせようとするのである。であるがゆえに、人と話すときは、人と話すつもりでいてはならない。バカと話すつもりでいるしかない。

 

ここで、メンドクサイ病の中で厄介極まる最悪のタイプ、オツムがまともであるところの人間の全員が不倶戴天の敵としなければならないししている、害悪の総本山にして地獄の大天使長を兼ねパコり捏ねチョメる、魔

次回の記事に続く