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ショーペンハウアーが切る!

西瓜BABY

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前回の記事から

々の障害物が降り注いでくる。それはすべての根底にある意欲や欲求がよりにもよってやってくれることだが、つまり認知が処理する対象はもちろん欲求と絡んでいるわけで、どんな対象も生のまま素のままで受容することなどなく、欲や下心や意図に冒されていて、情やバイアスや好悪感のえじきになる。すぐ思いつくのが、対象に勝手に願望を投影してしまうアレだ。対象をコウデアッテホシイものと見てしまって、それが自分にどのようなものなのかを冷静に見ていず、ありえないはずのことがありそうな気がして、挙げ句手中にあるかのようにすら錯覚してしまう。こんなんなると物事をそれのままに見ることなど皆目なくなる。これの反対に、無暗に怖がってしまって対象を精確に見定めなくなることもだる。さらに、先入観というものがあり、偏向というものがあり、そもそも自分の色というものがあってしまい、物事に対峙するときには心の底で常時欲望がうぞうぞ蠢いて目を眩ましてきている。)

今までに述べてきたヒト認知の弱点はその構造上の問題だった。情報に順次アクセスしかできず、非アクセス中のものは次々に忘却炉に落としてしまい、しかも目下の事とは無関係の邪魔者がわれもわれもと舞い込んでくる。どれだけ情報を蓄えてもそれは自由に取り出せる蓄え物なのではなくて取り出す練習を続けて何とかかんとか取り出せるようになるだけのもの。思考もダメで記憶もダメ。これがヒトである。ただでさえこうなのに、欲や意向や望みという雑念にえんえんと足を引っぱられている。自分がやりたがっていることや願っていることというフィルターをかけられないで外界を見ることがない。自分の願望と都合という自分の中のもので以って世界を捉えて判断するものだから、ありのまま実際のそのままに捉えることなど絶えてない。楽観バイアスを思い出してもいいし、この記事この記事この記事この記事この記事で見たような無根拠恐怖の暴走を思い出してもいい。或いは、この記事この記事この記事で触れた、現実に自分の願望をなすりつけるアホを思い出すものだ。ついでに言っとくと、確率に関する ギャンブラーの錯誤/錯覚/誤謬なども、自分の中のことを外界に勝手になすりつける認知病の1つだと言える。《そんなこと起こらなさそー!》《こんなに「ツキ」が続いたら今度こそ…》:それはお前の中のお前だけの思いだ。外界側の確率や可能性とは何の関係もない。さて、このように、今見ている文章は認知バイアスの目白押しである。こういうのを見抜けて直視できる当たりが知性の人たるゆえんだろう。

ここで改行して以下の文章:

Zu allen diesen Unvollkommenheiten des Intellekts kommt endlich noch die, daß er, mit dem Gehirn, altert, d. h. wie alle physiologischen Funktionen, in den spätern Jahren seine Energie verliert; wodurch dann alle seine Unvollkommenheiten sehr zunehmen.

(Schopenhauer, Die Welt als Wille und Vorstellung Bd.2 (1844), S. 140–141)

 

(ヒトの欠陥を通覧してきたわけだが、まだ終わりじゃなくて、さらに強烈なの、体も脳も結局は老化していくという大問題がある。ただでさえ終わってる欠陥動物がこの上加齢とともに覇気を失っていくと、もうどうしようもないことになる。)

と、(本当の意味での)言ってはいけない残酷な真実を言ってしまう。老化だけならいずれ誰しも認めることだろうが、その老化するのが元々が極めてあやうい認知能力の奴なのだとしたら、コトは深刻である。老年にはヒトはますますうんこ製造機なのだろうか。以下、どう言ってくれるのだろうか。

改行して以下の文章: 

君のことが好きだから

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Die hier dargelegte mangelhafte Beschaffenheit des Intellekts wird uns indessen nicht wundern, wenn wir auf seinen Ursprung und seine Bestimmung zurücksehn, wie ich solche im 2ten Buche nachgewiesen habe. Zum Dienst eines individuellen Willens hat ihn die Natur hervorgebracht: daher ist er allein bestimmt, die Dinge zu erkennen, sofern sie die Motive eines solchen Willens abgeben; nicht aber, sie zu ergründen, oder ihr Wesen an sich aufzufassen. Der menschliche Intellekt ist nur eine höhere Steigerung des thierischen: und wie dieser ganz auf die Gegenwart beschränkt ist, so trägt auch der unsrige starke Spuren dieser Beschränkung. Daher ist unser Gedächtniß und Rückerinnerung etwas sehr Unvollkommenes: wie wenig von dem, was wir gethan, erlebt, gelernt, gelesen haben, können wir uns zurückrufen! und selbst dies Wenige meistens nur mühsam und unvollstandig. Aus demselben Grunde wird es uns so sehr schwer, uns vom Eindrucke der Gegenwart frei zu erhalten.

(Schopenhauer, Die Welt als Wille und Vorstellung Bd.2 (1844), S. 141)

 

(ここまでヒトがどうしようもないということも、この生物のこの生物たる起源由来を訪ねれば、わからんもんでもないものである(『意志と表象としての世界』第2書参照)。上で言ったことをもう一度言うが認知が生じたのは欲求充足のためにである。だから物事を認識するのはそれに/それで/それから何かシタイからである。物事をありのままに知るために認知が有るのではない。もちろんヒトの認知能力など動物の延長にすぎない。だから動物同様ヒトも目の前のことに夢中になり全体や周りが見えなくなることはそれはそうである。現在に埋没した現在病の生き物なのだ。そりゃ自分本人の過去のことすら想起する能力に著しく欠けているわけだ。ヒトの記憶力など、困苦に満ちただけの、ないにも等しい邸能力だ。過去など責任もって持てるような動物ではなく、ひたすら現在の雑事用事に縛り付けられている。

注意浅く一見すると、動物の認知能力をマシにしたものがヒ

次回の記事に続く