地上最強のブログ

しばいてくぞ

もうちょい普遍的にしてもらえませんかね

 

本ブログで書く見解は全部いつかどこかで反論反証してもらいたいものなのだが、かといって、ブログにコメント欄なんて設けでもしたら、やって来るのは、マト外れで素っ頓狂なことぬかしていく奴や、記念カキコのゴミ寸評を書いてくバカや、何を酔っ払ってるのか意味不明の池沼といったところが関の山で、いやそれならまだいいほう、ほとんどは、論じていることを1ミリも理解もせず しかし文句だけはつけておきたいというだけのヒトモドキが湧くだけであり、だから設けないのであるが、

それはそうとして、例えばこの記事で述べたようなヒト音声に関することも、例えば

という名著で述べている見解によって補足しなければならないものがある。

と言って本書がヒト音声に関して述べていることは上掲リンク先記事で述べていることに別に何かを反論するものではない。

いや、そんな話をしているのではなくて、この本の何が感銘深いと言って、普遍的な着想がである。例えばこの記事で紹介している『虹の解体』などを思い出すが、こういった類の本 というかそういった論述が、何故にいつも感動を超えた感動を押し寄せてくるのかと言うと、それは、言っていることが極めて普遍的だからであり、この世界の事象を原理と根底から説明しているからであり、そうして どんなことにもそんな日常にもあんな出来事にもそんなお前にもこんな自分にも3億33パーセント通じる包括的で巨視的で一般的なことを述べているからである。普遍的であればあるほど、感銘に導く。どこにでも通じる話ほど、値打ちがある。一般的なことを述べてこそ、なんぼである、それ以外はしゃべんな。

当たり前すぎるこのことを、字書いて出す者の69億78パーセントが全く理解しとらんようである。もちろん話題そのものはローカルでもマニアックでもマニキュアでもピストンでもバキュームでもストロークでもいい、そこから、知的財として残るに値する考察や論述を出来ればそれでいいわけだ。

ペディキュアday (通常盤)

ペディキュアday (通常盤)

そういった本なのだが、見ての通り題名が内容をまったく反映していない。邦訳書の書名は無視したほうがいい。

ちなみに捕捉と言えば、この記事で紹介した本だが、アッカーマンというのは日常の疑問を科学から見るという面白い本を書く人のようで、とくに今リンク貼った記事に書いた本の中で述べるNon-exercise activity thermogenesis (NEAT)(非運動性活動熱産生)など、健康と体調一般、どころか今までの人生を解明してくれるように見えるというような非常に解明的な概念だが、

それはそうとして、この人の

なども日常の疑問を扱っていて啓発的そのものである。COVID-19下である現在に特に読んで得るものがある。

それにしてもマスクて効かんのだな。本当にしないといかん所では全然していないというのにな。なお本書に述べる風邪の罹患と回復は、自分からしたら、嘘千万である。自分はもっぱら寒さで風邪を引き、ドカ食いで治る。

 

ところで一般的と言えば、また日常的と言えば、次のような日常的な事がある:オツムの弱い者ほど一般的思考が出来ない。例えば、自分もそうだったが、子供は、〇〇といったような話があってだねと何かの話をされると、すぐ「誰」のことかと言い出す。「えっだれ?」「それだれ?」まさかお前はええトシこいてやってないだろな。

子供には、文脈や所有者や当事者と切り離した事柄それ自体というものがまだなかなか理解できない。まして、そういった語りが楽しいという大人の境地が遠いものである。コトが誰かのコトでないと気が済まない。知識に住所番地が付いてないと、理解できない。お前何中だよ。

同じように、子供のままオトナになった生き物でも、そういったことになる。この世の中の或る事象や行為についてそれが不愉快とか困るとかいうことをヒト全体に即して一般的なこととして喋ったつもりが、子供オトナは、自分のことを言われているとか身近な誰々さん何々ちゃんのことを言われているとか思いだす、いやそんなことしか考えることが出来ない。いまこのように書いたとしても、この人はどこかで出会った具体的な誰かのことを念頭に置いて亀頭に擦って書いているんだなといったようなことしか考えれないし、とにかく話を己や他者に拡げて考えることが出来ない。拡張しろ。

こんなバカと話すのは苦も苦である。何を言ってもいちいち実在の何かや誰かに帰責されるのだから、おちおち物も言えない。こいつらには批判とか批評とかいうものが存在せず中傷とか加害被害というものしか存在しない。舌鋒や攻撃は「誰」かに向かうものでしかありえない。「人間」や「国民」といった段階はまったく知解できず、顔を知っているトモダチ家族職場の誰々しか理解圏域に入らない。こいつらの世界は身近と親近に尽きるものであり、こいつらの環世界は単細胞的原始的段階にとどまる。そして問題は、このように書いたところでイメージされているのであろう連中だけがこうなのではなくておよそ知に用事があり知が何なのかがわかっているはずの人種でも事態はまったく同じ絶望的なものであるということである。

一般的なことのほうが面白く、話を抽象的に捉えるほうが興趣をおぼえるというように、抽象的な事柄や事績や人物のほうが気になるというのが有る。身近な物事や誰々でなく周囲の人々でなく、そんなものにはいささかも心動かず、遠い国の悲喜コモゴモや・会ったこともない誰かや・フィクションの中の顛末や・こちらが一方的に知るだけの誰かや・自分の人生と直接には何の関係も利害もないストーリーや・活字やモニターの向こうにしか無い世界や・架空の中にしか居ない誰々や・ニュースが伝えるだけの不幸や・歴史の彼方にある生活、こういったものにこそ感興し動揺し感動し没頭する、そういった事が、確かに有る。

例えば自分が人生でいちばん激動したのは

邪宗門 上 (河出文庫)

邪宗門 上 (河出文庫)

邪宗門 下 (河出文庫)

邪宗門 下 (河出文庫)

を読んだ時である。感興記すレビューが意外にも数々付いていて実際によく出来た作品なのかも知れないが、とにかく、《おもろい本は冒頭からおもろい》の法則を地で行くもので、行徳まさの来歴からもう最高潮、その後もテンションが一切下がらず(戦時中のひのもと救霊会の牧歌的シーンでも)、読んでて悲鳴の止まらない凄惨な満州遁走編も米軍抗戦編も永遠不滅の阿礼も、全編全文章が異例中の異例というか今後どこの誰にも二度と書けないだろうという物スゴ凄まじさであるが、まあとにかくそんな本である。

登場人物も地域時代背景も物語設定も、縁もゆかりも無い。実際の一番の感動ポイントが、当時という色んな事が限られていた時代にすごく生活が限定的な社会集団内で一生を送る人というのが考えさせられるというものなのであって、そないに縁もゆかりも無い遠い異世界を想っているものでもない(100年前の日本の話だ)っちゃないのだが、それでも、この世で最も動揺し(て半年ぐらい情緒安定しなかっ)た物事というのがこういった本の中の物事であって、身辺親類縁者の誰々や何々ではないのである。

それにしても人間は物語に弱い。始めて・設定して・描いて・盛り上げて・堕として・昇らせて等々としたったら、活字でも映像でも、イチコロで参る。

それは、人間がストーリーが大好きな動物だからでもあるだろう。〇〇に対してしたXX、△△ということがあった誰々、□□だからある今、◇◇に至る運命、XXせざるを得ない何々、そんなんが大好きだから、何にでもストーリーを見たがり・人に属性をつけたがり・人に「性格」を付けたがり・人や物を「キャラ」にしたがり・設定ということをしたがり・起承転結を強制し・原因と結果を虚妄し・今の〇〇に対する過去の〇〇などという嘘話をウレシがり、A「だから」Bというもの全般、「だから」という宗教的信念を固持したがる。そういったものがどれだけウソで錯覚かということがなんぼ完膚なきまで指摘されようと、この世を原因と結果で、アアシタカラコウナッタ・ソウイウモノダカラコウスルの信仰箇条で捉えようとしたがる。そうして、コウイウものである誰々何々がソウイウようなことをすると、ウレシいのである。コウイウようなものでも何でもない原子の集合が別の原子の集合配列に変わっただけという真実の世界など見たくも考えたくもない。美は美であって電磁波ではない。出来事は意味であって分子運動ではない。だから、被告には動機がなければならず成育環境がなければならず、立てこもり犯には「」(←存在物・実在物というより必要物・要請物)が呼ばれるという陰惨な喜劇が繰り返されねばならず、英雄が旅に出ねばならず、段階的にレベルアップせねばならず、「10年後の^q^」〇〇と言わなければならず、田畑が実りに向かわねばならず、時間をかけた事には成果がなければならず、悪い人だから悪い目に遭わねばならず、悪い目に遭っているからには悪い人でなければならず(後知恵バイアス)、理や義や大義や名目がないと行動してはならず、カンフー映画で主人公は一度ボコられねばならず、グループには不仲と仲直りがなければならず、個人には「ルーツ」(失笑)がなければならず、誰にもキャラクター(der Charakter:性格)が付いていなければならず、一般に 〇〇〇「」XXXという属性ラベリングをしないと何も認識できず、すべてのことには意味と理由があることになる。この中でのみ、感情が動く。身近で親近な人やことでも、そこにストーリーが乏しいと、無機的であり、関心を引かない。一方、1万年前ぐらいから、メディアが提供するものは、ストーリーに満ちており、大いに関心を引く。

みんな、文脈が大好きなのであり、脈絡の中にしか生きれず、因果や関係をデッチ上げていないと息もできないのである。