地上最強のブログ

しばいてくぞ

金は気分の問題

 

おしゃべりジュークボックス

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HKT48

  • 発売日: 2020/04/22
  • メディア: MP3 ダウンロード

 

COVID-19の(特別定額)給付金10万円で〇〇を買うとか何とか言っているのを見ると、コイツ自分でおかしいこと言ってるのがわからんのかと思うもので、というのも、誰にでも分かるし分かっている(はずの)ことだが特にその振り込まれるその金銭でもって購入等をするわけでは別にないからだ。その振り込まれた貯金上の数字がそのままその購入等に振り分けられるわけでも何でもない。仮に44万という貯金の数字があったとしてそこに10万という数字が加わっとしたら54万になる、ここから、給付10万で買ってるつもりのその買い物をしたとしても、それは54万という塊のほうから出ているものであって、この54万塊の中の特に給付10万部分から出ているわけでは別にない。そらそうだよな。仮にこの54万塊から10万を特にわざわざいちいち下ろして来てその現金でその買い物や支払い等をしたとしても、愚に変わりはない。その現金が振り込まれた現金と同じものとは限らない(連番を調べでもしたんか)し、そもそも振り込んでるほうは現金で振り込んでもいない。ぜんぶ、数字上のこと。そこに「給付金10万」を勝手に読み込むのは気分の問題に過ぎない。当たり前すぎて言うまでもないことであり聞かされたくもないことだろう。ではなんでお前はこのバカげた発言を平気でするのだ?

事は、あまりにも簡単すぎて自明すぎて逆に誰もが忘れ切ってさえいるようなこと、或いは存外忘れていずにいつも大概しっかり意識していること、《〇〇の金でXXを買う》等とホザくときにいつも思ってはいるが思わないようにしていること、そんなことかもしれず、そんなことなのであろう。だから、問題なのである。

なお、言うまでもないことだが、仮に現金で受け取ったとしてそれで予定の買い物や支払い等をしたとしても、ハナシは同じことで、特に給付金10万円で以ってしてその払いをしたことには、やはり別にならない。というか、ならなくていい。そうした場合と、他に、その現金をタンス貯金仮に22万に足して32万塊にしてそうしてこの塊から抜いた給付のほうの万札で払ったする、こちらと、事態には何の違いもない。どちらで払ってもその払いはその払いにすぎず、何のカネを使っても別に何の違いもなく意味もない。お前は連番によって金額が変わるとでも思ってんのか。ものすごいバカらしい話をしているのは分かるだろう。ムズカしいことはまだ一言も言ってない。

カネなどというのは何が何でもゼッタイに数字上だけ限定のことにすぎない。それが元は何のカネだったか・棚ぼたのカネなのか・拾ったカネなのか「勝った」カネなのか買ったカネなのか・「汚」れたカネであるかないか・「血」にまみれたカネであるかないか、云々、こういった話や台詞や信条や主題や主張や物語の何もかも全部が、まったく何の意味も無い。ただただ気分の事柄にすぎず、したがって中身は皆無の絶無である。内容のないブラーブラーをやっとるだけだ。

もし給付10万でウンタラ話に意味があるとするなら、それは、現時点所持金ゼロ円でそこにその10万が入るという時ぐらいのことかもしれない。しかしそれがまたおかしい。よく、やれ給料振り込まれてそれで何かをするだとか、やれ「懐」があたたかいだとかホザくものだが、そういった発言が意味を持つときは、その入るカネが無いと所持金尽きる状態にでもあるときだ。だとしたら、お前はそんなに貯金ゼロで暮らしてんのか。おまえは異常者かということになる。言うまでもなく当たり前すぎることだが今は特別な人生を歩んでいる特別な人たちに関しては一切話していない。ふつうに暮らしとってフツーに預金の数十万もあるようなふっつーの庶民層(以上)の話だ。

もちろん、今述べていることは誰にでもワカりきっていることであり、ことさら改めてこのように述べてアホ指摘をすると、そーだよわかってるよ気分の問題だよその通りだよわかって阿呆な発言をしてんだよそんなこといくらでもあるだろうアンタだっていくらでもするだろうと返してくるだろう。と言うか、そう返してこい。そう返してくる者しか相手にしとらん。それ以外の、予想だにしなかった意味不明な返しをしてくる変わり者のきっしょい奴には是非とも湧かないでほしいものだ。

そう、気分の問題だ。入ってくるカネがそんなテトリス的に動くとはもちろん誰も思っていない。給付10万もらえると、それで気分がアガって、もらえない時とは違って、もらえていない隣宇宙の自分とは違って、そんな自分にはちょっと買う気にならなさそうなアレを買う気になる、そういうだけのことだ。買い物でなく生活必需支払い等でも同じことだ。カネの流れなどというのは他愛ない市民であっても種々数々の様々であって、COVID-19下であろうとそれは同じことであって、そのカツカツの支払いにやっと間に合ったその金額が、特に給付分から来ているものなのか・それともタンスの底にあった分から来ているものなのか・それとも昨年の節税項目〇〇の分から来ているものなのか・87日5時間13分14秒前に親戚の〇〇ちゃんから借りた分から来ているものなのか・それとも道で拾った分から来ているものなのか・それとも従業員にちょっと待ってもらっている先月分と今月半分の給料の分から来ているものなのか・それとも……以下無際限。このように、自分のマネーフローを精確に追跡できる者などいない。し、別にできてもいっしょのことで、冒頭に書いたようにその支払いは自分の所持金塊の中からしているものなのであって、特に何の何からしているというものではない。そう思うなら、それは気分の事にすぎない。結局、その給付があろうとなかろうと、一緒のことだ。なかったとしたら、また別の支払い方法を見付けることだし、別の買い物口実を見付けるだけのことだ。特にその入ってくるそのカネが意味を持つのは、そのカネしか本当にないんだという異常者、スポット派遣の「即給」が意味を持つような異常者、メルカリで100円いくらを値切ってくる異常者、「いいね」だけ付けて買わない人間のクズども、こいつらに限ったことである。

だから、意味の有る期間上において所持金の数字が意味の有る変動をすること、これだけが要諦でありそれ以外ではない。給料など毎月だろうと毎年だろうと毎秒だろうと、毎世紀でさえなければ、いつ振り込んでもらってもいっしょのことだ。余命1ヵ月なのに3年後の話をされても困るだろうが、フツーの者なら、今月もらうか来月もらう半年後にもらうかなどに違いはない(あったらあかんこと上で述べた通り)。それが早いほうがいいとコダワることには気分以外の何の根拠もない。明日10万円もらえるか来年11万円もらえるかに選択の余地などない。多くの者が前者を選ぶのは気分の中に生きてそこから一歩も出れないアホだからだ。

そうだろうな、確かにそうだ、借金が明日返済できるのと来年返済できるのとでは、数字上は同じ話でも、選択の余地なく前者を選ぶ。気分、超重要。一気に全額払ったほうが心の負担が無くていいに決まっている。ところが、多くの者がだらだら払いたがりちょびちょび返したがりローンなどというバカの骨頂を好きこのむ。気分の中に生きてそこから一歩も出れないアホだからだ。気分、超重要。

そう考えたら、明日11万もらえるか来年11万もらえるかにも、別に大した違いはない。その11万が精子を左右するわけでもないのなら、1年後そこらぐらい 待っときゃええ話である。気ィついたら振り込まれとるがな。返済だって、今すぐ全額返済できようが80年後に完済できようが、数字上は結局は同じことだ。ちょっと3億年後まで待ってください。そう、数字上は、同じことだ。ところが、同じ数字に対して異なった反応をする;プロスペクト理論が解き明かしたように。同じものなのに違って見えるわけだ。

行動経済学なり現代心理学なりが解き明かしたことが、単に、利益や損失の 勘定 感情に基づいて計算的でない行動をするということであるというにとどまらず、同じ数字同じ事柄であってもそれがどのようなものなのか(という文脈)によって異なった行動をするということであるなら、極めつけに普遍的なことを明かしているということになる、哲学に近いまでに。すなわち、事物側に有ると思っていた連関や意味がヒトの中にしかないものだった、ヒトが文脈化するのであって事物に文脈が存在しているのではない、ということ、この知見は、コペルニクス的である。コペルニクス丼。

こういった観点から不合理で阿呆な行動を正しく見てみよう。例えば締め切りや期限というものに対して阿呆で不合理なふるまいをするものだ。自分はせんし気持ちも分からんのだが、とはいえ昔日幼時にはしていたのであり、切り捨ててていい他人事ではない。しかも阿呆たちもまたええ歳こいた大人なのであり、それほどそこまでなーも考えず毎度毎度締め切りぎりぎり行動をしているのでもない、つまり何となくいつまでも仕事を始めないでいたら期限が迫っていたわというだけのものではない、かもしれない(もしそうであるのなら、以下に述べる弁護の要さえもない 真にオワってるバカである。二度と出て行け)。

たぶん、遠く先に見えている期限に対して今すぐに仕事にかかるのがなにかモッタイない気がするのだろう。期限手前で動くのと今動くのとが何か違ったものに見えるのだろう。実際には、合理的にすなわち事物に即して見れば、どのタイミングで腰を上げても、同じことである。今かかろうが直前でかかろうが、やらなあかん仕事の内容も量もそれの成果も昆布も鰹も椎茸も、そしてお前らには信じがたいことに、腰を上げるしんどさもまた、すべてが、まったく同じである(理論上はだ、いちいち言わすな)。それでは、締め切り間近でばたばた(←アホの定言、お前ばたばたさしたろかコラ)するより、今仕事にかかってしまったほうが、いいことはいいだろう。いつもらっても同じカネ、いや待ったほうがやや多い、それがワカラないバカ、同じく、いつ着手しても同じ労働、いや早よはじめたほうがややラク、それがワカラないバカ。

こうして、締め切り行動バカは、金銭から考えると、納得がいかなくもない。プロスペクト理論の描くような行動は、自分も必ずするし、愚だとアタマで分かってもするし、その時の感情は頑として動かしがたい。例えばレジ袋有料化が迫っているがここでもそうである。この政策が愚昧なのは、表現が悪いからである、そこに尽きる。レジ袋を有料にすると言うのではなくて、反対の言い方をすれば、つまりレジ袋を断ると値引きすると言えば、損した気がしない。レジ袋有料化を義務にすると言うのでなく、レジ袋断り客の値引きを義務化すると表現すれば、搾取政策に見えなくなる。もちろん経営としては難しくなるのだが、描けば、商品がレジ袋有料化を反映した価格になるようにしておいて、断る客には値引きをする、ということになる(うわむっず。知ーらね)。単に有料にすると表現しただけでは、もらわなくなる傾向が大きくなるだけだ。店側に(政策側に)トクはそんなに無い。一方断ると値引きと表現しておけば、断らなくても負担ゼロと感じてしまうので、基本的にはもらうようになってしまう。店側に(政策側に)トクなばかりだ。客も、払う金に関して今までとの違いを知覚しないし(違いが無いわけではない)、断るだけで何円かもらえるというおトク感があるばかり。これをウイーンウイーンと言う。今の政策では逆にンーイウンーイウだ。レジ袋有料とはもともとサンディがやっていたことだ。果たせるかなここで袋もらうのは損気分でしかなく、まずもらわない。店側も客もトクしない。ライフもやっていたが(リンク予備①・リンク予備②)、断ると値引きするという表現だった。イオンもそうらしい。もらっても負担感がなく断ったらおトク感ばかり。結果としてまずもらうことになる=レジ袋分利益が生じることになる(のだろう、知らん)。そして、どちらの表現をされても、同じことになる(ならない政策をするわけがない)。消費者の払うカネの額には別に何の違いも生じない。気分だけの問題だ。その気分が超重要だ。