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しばいてくぞ

バック・トゥ・ザ・フューチャーの逆

あの先の未来まで

あの先の未来まで劇場盤

  • SKE48(キャラメルキャッツ)
  • 発売日:2017/2/22
  • メディア: MP3

 

バック・トゥ・ザ・フューチャーの逆が叙事詩。そういう、フォワード・トゥ・ザ・パストが叙事詩である。と言ったゲーテの考察を記録しとく。

あらゆるドイツ語著作家ゲーテはダントツ一番興味ないし・しょうもないし・どうでもいいのだが、以下の考察だけはなかなかイケる。ということであって、この人が偉大だから記事にするのではないし、この人は別に偉大でも何でもない。アホどもよ、勘違いするなよ。

(以下、こっから引用しとるさかいな)。

1797年4月19日シラー宛書簡

叙事詩のストーリーって、未来過去現在を行ったり来たりしますな。って言うかね、後ろに下がるっていのが、是叙事詩なんすよ。遅れさえすれば叙事詩。戯曲だったら勿論そんなんあったら展開妨害します。〔改行〕遅れってのが生じるようにせんといかんのです。これ断固す。ホメロスなんて遅延だらけでしょ。自分も遅延だらけの叙事詩書くつもりすしね。で、ということはすよ、ラストに向かってすっ飛んでく内容だったら、叙事詩失格。それかただの歴史物。

(Eine Haupteigenschaft des epischen Gedichts ist daß es immer vor und zurück geht, daher sind alle retardirende Motive episch. Es dürfen aber keine eigentliche Hindernisse seyn, welche eigentlich in's Drama gehören. / Sollte dieses Erforderniß des Retardirens, welches durch die beyden Homerischen Gedichte überschwenglich erfüllt wird, und welches auch in dem Plan des meinigen lag, wirklich wesentlich und nicht zu erlassen seyn, so würden alle Plane, die grade hin nach dem Ende zu schreiten, völlig zu verwerfen oder als eine subordinirte historische Gattung anzusehen seyn.)

1797年4月22日シラー宛書簡

遅延の法則なんすけど、上位の法則がありましてね、つまり、良作ってのはラストを判らして来るもの、て法則です。判らし方が上手いことで読者の気を引いとくんです。だから内容じゃないす。先が気になる内容だったらそれはいかんのです。ラストがそこらじゅうに転がってるんです。〔改行〕オデュッセイアなんてひたすら後に向かって進行してますけど、その代わり、これはハッピーエンドよって何十回も言ってあるようなもんなんです。ラストさんざん告知してるから、後退して遅延してそれで別にいい、てことなるんです。自分のヘルマンドロテアなんか、ラスト見え見えだからおもろいんす。後に下がってくストーリー、新ジャンルすよ。〔改行〕よってどれだけ長い挿話部分を書いてしてそれを真ん中に持って来てしてもいい。オデュッセイアがそうですし、悪くない具合になってますね。こんな挿話なんてのは戯曲でやったら、ひたすら前に進むのが戯曲なんですから、とんでもないことなります。逆に挿話がストーリーにしっかり絡んでるんなら最高の戯曲です。

(Ich suchte das Gesetz der Retardation unter ein höheres unterzuordnen, und da scheint es unter dem zu stehen, welches gebietet: daß man von einem guten Gedicht den Ausgang wissen könne, ja wissen müsse und daß eigentlich das Wie blos das Interesse machen dürfe. Dadurch erhält die Neugierde gar keinen Antheil an einem solchen Werke und sein Zweck kann, wie Sie sagen, in jedem Puncte seiner Bewegung liegen. / Die Odysse ist in ihren kleinsten Theilen beynah retardirend, dafür wird aber auch vielleicht funfzigmal versichert und betheuert daß die Sache einen glücklichen Ausgang haben werde. So viele den Ausgang anticipirende Vorbedeutungen und Weissagungen stellen, wie mich dünkt, das Gleichgewicht gegen die ewige Retardation wieder her. In meinem Herrmann bringt die Eigenschaft des Plans den besondern Reiz hervor daß alles ausgemacht und fertig scheint und durch die retrograde Bewegung gleichsam wieder ein neues Gedicht angeht. / So hat auch das epische Gedicht den großen Vortheil daß seine Expositon, sie mag noch so lang seyn, den Dichter gar nicht genirt, ja daß er sie in die Mitte des Werks bringen kann, wie in der Odyssee sehr künstlich geschehen ist. Denn auch diese retrograde Bewegung ist wohlthätig; aber eben deßhalb dünkt mich macht die Exposition dem Dramatiker viel zu schaffen, weil man von ihm ein ewiges Fortschreiten fordert und ich würde das den besten dramatischen Stoff nennen wo die Exposition schon ein Theil der Entwicklung ist.)

1797年4月26日シラー宛書簡

人間が盲滅法になってて世界に対して無力そのものてのが悲劇ていうジャンルです。主人公が視野狭窄状態。思考なんてどこにもない(脇役にしか無い)。主人公ボロボロ。〔改行〕一方叙事詩だと思考が俄然モノ言います。オデュッセイアすね。イリアスだと情熱の氷づけ。アルゴー船はあんなん冒険活劇です。叙事詩ではない。

(Im Trauerspiel kann und soll das Schicksal, oder welches einerley ist, die entschiedne Natur des Menschen, die ihn blind da oder dorthin führt, walten und herrschen, sie muß ihn niemals zu seinem Zweck, sondern immer von seinem Zweck abführen, der Held darf seines Verstandes nicht mächtig seyn, der Verstand darf gar nicht in die Tragödie entriren als bey Nebenpersonen zur Desavantage des Haupthelden u.s.w. / Im Epos ist es grade umgekehrt, blos der Verstand, wie in der Odyssee, oder eine zweckmäßige Leidenschaft, wie in der Ilias, sind epische Agentien. Der Zug der Argonauten als ein Abentheuer ist nicht episch.)

1797年12月23日シラー宛書簡

後退てのは叙事詩だけの特徴です。〔中略〕イリアスヘクトルが死んだ所とギリシャ軍が帰還始める所のこの間にもう1個ぐらい叙事詩があり得るかどうか。あり得ないすね。だってまず、この時点だと後に進めれる話がもう何もありません。前に進むのみです。〔改行〕それに、過去に向かってく語りをしようにもキャラクター1人1人に焦点当てるしかなくなります。スケールこそデカくても結局私事になってしまう。

(1. Daß kein ausschließlich episches Motiv, das heißt kein retrogradirendes, […] nämlich zu untersuchen: ob nicht zwischen Hektors Tod und der Abfahrt der Griechen von der Troianischen Küste, noch ein episches Gedicht inne liege? oder nicht? ich vermuthe fast das letzte und zwar aus folgenden Ursachen: / 1. Weil sich nichts retrogradirendes mehr findet, sondern alles unaufhaltsam vorwärts schreitet. / 2. Weil alle noch einigermaßen retardirende Vorfälle das Interesse auf mehrere Menschen zerstreuen und, obgleich in einer großen Masse, doch Privatschicksalen ähnlich seyn.)

 

というように、物語を始めたら、それを時間軸上未来方向に語り進めていく事をなかなかか全然しないで、今の話の前にはこんな話が・背景が・状況が・文脈が・一族たちの歴史が・神々たちの思惑が有って、さてそれの前にはこんな … とどんどんどんどん時間軸上後ろに後ろに下がっていく、これを„retardi[e]rend“, „retrogradi[e]rend“と言っている。そうやって下がって行きながらテキスト自体は前に進んでいるのだから、あたかも未来に戻るの反対で過去に進む、と言うことになる。これが叙事詩の形式であって、少なくともこの19世紀直前頃のゲーテからしたらこのようになっていないと如何な詩作品も叙事詩でも何でもないのである。引用に見るように結構この態度が厳しくて、とにかく創作でも知識でも人付き合いでも何でも鷹揚に受け容れてしまうゲーテ、その作品が外見的普遍性という最悪の無個性に汚れている(訳がないが)ように見えてしまうぐらい大海原のようなゲーテ、にしては、珍しくごりごりリゴリズムな姿勢であり、態度が決然とハッキリとしていて非常に好ましい(勘違いしてはいかんが普遍性とは最強に癖が強い独自性独尊個性からのみ可能となる。)。だから世に「叙事詩」と呼ばれているものがごまんと有り無数の作品作者がこぞって叙事詩を自称し他称しているが、このretardierendretrogradierendなストーリー進行が厳格に一貫していない作品はお前が勝手に言ってるだけだボケ叙事詩モドキということになる。と言うより、叙事詩(Epos, Epopöe)というのは特定の言語規則で書いたものを専ら言うのであって、第2叙事詩『ヘルマンとドロテア』の後のと前のを合わせたゲーテ3叙事詩はこの言語規則で書いてあるから叙事詩なのであり本人もそのつもりなのであって、この言語規則で書いてはいないゲーテの作品はすべて叙事詩ではないし本人も別にそう思ってはいないのである。『ファオスト』等を叙事詩呼ばわりしてるのは後世のアホたちの手前勝手なのである。

というか文学ジャンルのEpikとは最も狭義にはヘクサメタ韻律で書いたものしかそうと言えない(だから古代ローマラテン語ネイティブたちが古典ギリシャ語という異言語の韻律規則に自言語を整形していたのである、ウェルギリウスたち皆そう)のだからダンテ喜劇にせよ『ニーベルングの禍』にせよ作品形式上は叙事詩ではないし、これらはまた内容的にも戯曲でしかない。後退運動なんか全然してへん。こういった作品が実際には叙事詩ではないのだから、自称他称「叙事詩」どもの有象無象が如何に叙事詩でも何でもないか推して知れるものだろう(例えば、ここにも書いたことだが、ドロステ=ヒュルスホフ(Annette von Droste-Hülshoff, 1797–1848)の「医者の遺言〔des Arztes Vermächtnis〕」がなぜか「叙事詩〔Versepos〕」と呼ばれているが内容・形式とも叙事詩らしい点が1ミリも無い)。語りが過去に向かっているものだけが叙事詩と言うと言い過ぎで後退だけしてると作品にならんのはそれはそうだが、要するに大事なのは、後退をどんだけしているかという点でその作品がどれだけ叙事詩かということが決まるそんな定量決定要因が理解できるということであり、上の引用にあるようにこういった叙事詩遅延をするなら必ず結末があっちゃこっちゃで見えるような案配にしなあかんそれが出来てないとまた叙事詩ではないラストびっくりやってると非叙事詩ということである。そして気付かれた向きもあるだろうが、物事を始めたら前に進めずに後ろが・過去が・過ぎたものが・起源が・始源が・全ての始めが・始めよりも始めが気になってそっちにばっか向かってしまう、これ、哲学の方法・態度である。勉強の前に掃除ばっかしてまう。

 

未来とは? 劇場盤

未来とは? 劇場盤

  • SKE48
  • 発売日: 2014
  • メディア: CD

シリーズ欧文訓読の歴史 (3)

水夫は嵐に夢を見る

水夫は嵐に夢を見る

  • AKB48
  • 発売日: 2013/12/11
  • メディア: MP3 ダウンロード

 

前回の記事から

以上の記事で見て来たように、何かしら言表があれば、それを、何の意味もなく惰-慣性でもって「文」に分けて捉え、さらにそこに個々の「語」を見るという意味不明なことをして、さらにその語を辞典の見出し語意に従って(!)母語に変換(!!)して後に並べ替える(!!!)という、チンパンジータイプライターな、非人間的・非知性的・非知能的な《作業》をするのが、我が皇国のしたきりであるから、当然、原文に書いてある「語()」をすべて余さず日本語に変換しなければナラナイ。

ヘーゲル講義録研究

ヘーゲル講義録研究

  • 作者: オットー・ペゲラー,寄川条路,他
  • 出版社/メーカー: 法政大学出版局
  • 発売日: 2015/11/26
  •  
  • の10頁

ヘーゲル文庫を訪れてくる人はたくさんいる。しかし、その中のだれ一人たりとも、ヘーゲルの後継者になることもなく、ヘーゲル自身になることこともない。こうしたことは考えられないし、空想であってもそう思い浮かべるのは難しい。いずれの場合も、ヘーゲルの名前が付いた研究を見にくるなど、ヘーゲル自身には思いもつかなかっただろう。いったいヘーゲルはコンピュータを使うことができたのだろうか。ヘーゲルは自分の作品のどこか一箇所を理解するのに数千冊に及ぶ二次文献を見直したのだろうか。ヘーゲルプラトンの翻訳を理解するのにマルシリオ・フィチーノの翻訳を見て済ませようとしたのだろうか。若いころの作品を重視するのは、ヘーゲルにとっては奇妙な話ではないのだろうか。ヘーゲルは『ヴァート地方についてのカールの親書』を、自分が翻訳したものであると家族や弟子のだれもがわからないように、手放さなかったのだろうか。ヘーゲルがイェーナで書いた作品が体系とみなされて、初期・中期・後期に分けられることで、ヘーゲルは悲しい思いをしたのだろうか。ヘーゲルは講義の中で法哲学にだけ努力を注いだがために『法哲学綱要』ができたとすれば、そのことでヘーゲルは後悔したのだろうか。ヘーゲルが弟子や同僚と『学的批判年報』を創刊したのは、そもそもヘーゲルが自分の試みを超える以上に、弟子たちが仕事を進めるためだったのだろうか。ヘーゲルはシュライアーマッハーやサヴィニーのような有名な同僚たちをあれほど挑発することができたのである。だとすれば、重要なことは差し置いて些細なことばかりに取り組む編集作業に、ヘーゲルは一度たりとも満足することはなかったであろう。たとえそれが個々の点でいわゆる研究と呼ばれるものに長年の論争をもたらしたとしてもそうである。ヘーゲルにとっては、そのような細かなことはニュアンスのようなものであって、たとえばシュライアーマッハーの名前を「シュロイアーマッハー」と発音するように、あっさり片づけるだけで十分であった。

ヘーゲル文庫を訪れてくる人はたくさんいるらしいが、その中のだれか一人に、ヘーゲルの後継者になってもらったり、ヘーゲル自身になってもらったりして欲しいのだろうか。別にして欲しくもないのだろうか。この「翻訳」を見ていてペゲラーの文意まったくわからないであろう。寄川にこうしたことは寄川には考えられないし、寄川には空想であっても寄川にはそう思い浮かべるのは寄川には難しい。いずれの場合も、寄川の名前付いた「翻訳」を見にきて、ペゲラー自身の文章のもともとの意味わかるなど、ペゲラー自身には思いもペゲラー自身にはつかなかっただろうペゲラー自身には。

いったいペゲラーはヘーゲルはコンピュータを使うことができたのだろうか、と書いていったい何言いたいのだろうか。19世紀にコンピュータあったとペゲラーはほんきでかんがえているのだろうか。

寄川は自分の「翻訳」のどこか一箇所を理解するのに寄川自身は寄川自身はわかるのだろうか。数「千」冊に及ぶ二次文献を見直す人間などいるのだろうか。そもそもヘーゲル自身の二次文献自身ははたして数「千」冊自身あるのだろうか自身。ペゲラー自身は寄川自身はそれをペゲラーはかぞえたのだろうかペゲラー自身。

読者は寄川の翻訳を理解するのに原文見つからないからどうしようもないことに寄川は寄川は寄川は寄川は思い至った至らなかったのだろうか。

「翻訳を理解するのに」「翻訳」「を見て済ませ」るという意味不明なことを書いていて寄川はペゲラーはペゲラーはおかしいと思わなかった思ったのだろうか。

若いころの作品を重視するのは、ヘーゲルにとっては奇妙な話ではないのだろうか。だからお前はどうしたいのだろうかペゲラー自身は。重視したいのかしたくないのか、お前は何いいたいのだろうか。

ヘーゲルは『ヴァート地方についてのカールの親書』を、自分翻訳したものであると家族や弟子のだれもわからないように、手放さなかったのだろうか。だから何だと言うのだろうか。「手放さなかったのだろうか」と言われて我々はいったいなにを理解したらいいのだろうか。「自分が翻訳したものであると家族や弟子のだれもわからないように」ヘーゲル努めていたと言いたいのだろうか。それとも、「手放さなかった」ことにアクセントを置いているのだろうか。書いていて頭は大丈夫なのだろうか。寄川悪いのだろうか寄川自身。

ヘーゲルイェーナで書いた作品体系とみなされて、初期・中期・後期に分けられることで、ヘーゲルは悲しい思いをしたのだろうか。なぜ悲しい思いをしなければならないのだろうか。なぜお前たちはすぐ「悲」しがるのだろうか。本当は怒っているクセに、なぜ「悲」しむのだろうか。〇〇なことあって、「悲」しかった。嘘をつけ。「腹が立った」と言いたいのだろうが。「コワイ」。嘘を付け、気持ち悪がっているクセに、むしろキモさを責めようとすらしているクセに、なぜ何でもかんでも「コワ」がるのだろうか。カチンと来ていても、「コワい」。嫉妬しているクセに、「怖い」。文句があるクセに、「こわいわ」。許せないといいたいところで、「悲しい思い」をする。

寄川は「翻訳」の中で逐語訳にだけ努力を注いだがために稀に見る糞文ができたとすれば、そのことで寄川は後悔したのだろうか。するわけがないのだろうか。反省も思考力も無いのだから無いのだろうか。

寄川が共同翻訳者たちと「Jahrbücher für wissenschaftliche Kritik」を「学的批判年報」と「翻訳」したのは、そもそも読者が「年報」が批判的なのか「批判」が「学的」なのか「学的」の日本語の意味が不明なのか寄川のオムツはほんとうにだいじょうぶなのだろうか。ここまでの日本語音痴に「翻訳」をさせているのだろうかだろうないだろうか。

ヘーゲルはシュライアーマッハーやサヴィニーのような有名な同僚たちをあれほど挑発することができたのである。なぜ「だとすれば」なのだろうか。なぜ著名人を「挑発」することが、「重要なことは差し置いて些細なことばかりに取り組む編集作業」に満足しないことの理由になるのだろうか。寄川と同じく゜らいかそれを上回るく゜らいペゲラーのアタマがトんでいるのだろうか。そのような細かなことを気にしないヘーゲル、というのは分かったが、そう書いてお前はなぜ「たとえばシュライアーマッハーの名前を「シュロイアーマッハー」と発音するように、あっさり片づけるだけで十分であった」と書くのだろうか?何をどう「あっさり片づける」ているのだろうか。「「シュロイアーマッハー」と発音する」ことがいったいだから何だというのだろうか。「Schleuermacher」に関してはペゲラーと寄川が勝手に言っているだけでヘーゲルはどこにもそんなことを「発音」書いていないが、いずれの場合も(なぜお前はもっと短くアッサリと「どっちゃにせよやな」と書けないのだろうか)、「「シュロイアーマッハー」と発音するように、あっさり片づける」ことがこの「有名な同僚たちをあれほど挑発することができた」こととどのように関係しているのだろうか。シュライエルマハなどテキトーに「発音」(?!) しておけとヘーゲル思っていた、軽く見ていた、といったようなことをペゲラーは注記したいのだろうか?だったらなぜそう書かないのだろうか? いったいどこまで文章がヘタクソなのだろうか。なんて奴らなんだろう。なんてそうしょうもないんだろう。

 

次に、同系統のみっともない翻訳の例。赤字部分が余計。

もうひとつの脳 ニューロンを支配する陰の主役「グリア細胞」 (ブルーバックス)

もうひとつの脳 ニューロンを支配する陰の主役「グリア細胞」 (ブルーバックス)

  • 作者: R・ダグラス・フィールズ,小西史朗,小松佳代子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2018/04/18

グリアは電気的インパルスを発火しないので、神経科学者がニューロンの活動をモニターするために使用する微小電極では、グリアのその情報伝達を検知できなかった。グリアは、ニューロンと違い、シナプスを介して回路に接続されているわけではない。ずらりと並んだドミノ牌が倒れるように、情報を順次受け渡していくのではなく、グリアはメッセージを脳全体に向けて広く送信しているのだ。(4頁)

シュワンは広く浸透していた神学の教義を打ち破って、肉体は神秘的な力に命を吹き込まれるのではなく、無生物が物理法則に支配されているのとまったく同じように、人知を超えた自然法則に従って機能しているのだと、シュワンは推論した。彼は敬虔なカトリック教徒だったが、(57頁)

 

分析室の女流科学者ヴァレリヤ・ペトロホフはオフィスのデスクに向かって、定期的に彼女の承認を求めるために提出される報告書に目を通していた。はじめの二部は高温腐食試験に関するごくありふれた内容のものだった。彼女はざっとページを繰り、添付されたグラフや表をあらためると所定の位置に署名して報告書を<済>と記された書類籠に放り込んだ。彼女は事務的に第三の報告書の第一ページを読みはじめた。と、彼女はふいに当惑げに眉を寄せて視線を止めた。彼女は椅子の中で身を乗り出し、はじめから一行一行注意深く読み直した。さらにもう一度、彼女ははじめに帰って報告書全体の中身をつぶさに検討し、数式に出会うとその都度デスクの片隅のキーボード・ディスプレイを使って計算を確かめた。
「こんな話、聞いたことがないわ!」彼女は声を上げた。(24頁)

こんな日本語聞いたことがないわボケアホカスんだら!!!!!!!!!

 

ここで、わが埃高き皇国の民が日夜量産しているゲロヘドクソキモ日本語のサンプルを、五郎じよ。黒部御覧。以下は悪魔でサンプルであって、我が皇国民が排出しているゲロヘドクソキモ日本語の8900京分の1にすぎない。

からだの一日―あなたの24時間を医学・科学で輪切りにする

からだの一日―あなたの24時間を医学・科学で輪切りにする

  • 作者: ジェニファーアッカーマン,鍛原 多惠子
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2009/10/01

    内容は極上無類に面白い。
    特にNon-exercise activity thermogenesis (NEAT)の話題など瞠目もの。

(22頁)「今日という愛すべき日」

「日」を愛することはない。また日本語「愛」は意味不明である。

(23頁)「茶目ったっぷりに語る」

気色悪すぎる!!!!!

(23頁)「この有益な事実は」

「この事実は有益であり」に書き直せ。

(23頁)「不幸ないきさつで」

お前ら「不幸」だらけだな。

(23頁)「睡眠中を叩き起こされ」

「叩」いたんだな?ゼッタイだな?

(23頁)「ひかえめに言って」

おなじみクソキモ定型句。

(23頁)「最悪な状態」

それは「悪」なんだな?「悪」しきものなんだな?ゼッタイ「悪」いんだな?

(24頁)「びっくりするような目覚まし時計の音でいきなり起こされた不幸な人は」

別に「音で」起こされなくても「目覚まし時計」で起こされたら十分だが、目覚ましで起きただけで「不幸」になるんか。お前ら「不幸」だらけだな。「びっくり」は幼児語だバカ。

(24頁)「あなたのクロノタイプにもよる。クロノタイプは、あなたの概日性を」

「あなた」「あなた」うるさい!!!!!

(24頁)「いつだったか、作家のジーン・」

そのうろ覚えをやめろ!!(ってかもう「私の捏造記憶によると」でええやろ。)

(24頁)「偉大な遺伝学者の」

いちいち「偉大」じゃなくていい!!

(26頁)「フランクリンの格言に込められた知恵を実証しようと」

もう「知恵」と分かってるなら「実証」する意味がないだろが。と言うか、「格言に込められた知恵」が気持ち悪気色悪すぎる。

(28頁)「そこで天才が現われる」

何でもかんでも「天才」。微生物が「天才」なのなら、もういっそ雑草や石ころや犬フンも「天才」て呼べや。

(28頁)「朝に窓のブラインドを上げると」

そんなもん無いわ。大多数がカーテンだ。

(29頁)「食物、パートナー、捕食者」

「パートナー」がどれだけ気色悪い語か、知覚だけでもできる者おらんかー!

(30頁)「寒中水泳のチャンピオン」

「水泳」は「チャンピオン」ではない。

(32頁)「あまり派手な出血を見たくないなら」「歯医者で顔をしかめるような痛みをこらえるのが嫌なら」

実際本当現実に出血するか顔をしかめるかはお前に見えていることではない。歯科治療中痛かったらゼッタイ何が何でも「顔をしかめ」なければならないと決めてかかってくるのをやめろ。

(32頁)「ちょっと風呂場に入って、鏡の中を覗いてほしい」

風呂の鏡じゃないとあかんのか !!!!!!

(33頁)「全身が見える鏡とちょっとした遺伝子工学の助けがあれば」

「全身」が見えてない鏡だったらあかんのか。「遺伝子工学の助け」は「ちょっと」てゼッタイ決まってるんだな?特に「遺伝子工学」じゃないといかん理由を言ってみろ!!!!!

(33頁)「律儀に時を刻んでいるのだ」

生理機能に「律儀」さは無い。

(34頁)「フクロウのように夜が好きで」

フクロウは夜が「好き」なワケではない。

(36頁)「もっとヒバリのように早起きしたいなら、仕事場に歩いていけばいい」

ヒバリは「早」起きしている訳ではない。起きる時刻の「早」さは人間社会の都合の話だ。また「ヒバリのように」早起きする必要もない。ただ単に早起きしたらええだけだろが。それと、太陽光線に当たる方法として「仕事場に」「歩いて」行くかどうかはお前が決めることではない。あと、日中太陽光線当たる云々は早寝早起きにクソ役に立たんぞ。

(37頁)「一杯の強いコーヒーに含まれる」

弱かったらあかんのか。2杯だったらあかんのか。なぜお前が「一杯」と決める。

(37頁)「救いようのないコーヒー中毒だ」

お前飲料ごときで救済求めるんか。

(37頁)「シュンシュンと音を立てるやかん」

物体「やかん」内部の液体「水」の現象「沸騰」の音声は「シュンシュン」ではない。「湯が沸く」となぜ言えないのだお前は。

(37頁)「バッハはコーヒーを好んだ」

「好んだ」のかどうかはお前に分かることではない。量的に沢山飲んでたとだけ言えばいいのである。

(37頁)「もっとも広く取引される」

意味不明。輸出入関係国が多いと言いたいのか、輸出入量が多いと言いたいのか、何なのかわからん。お前の形容語句中心文章はすべてを意味不明にする。

(38頁)「男たちは飲んだ茶をほとんど吐き出し」

ゼッタイ何が何でも「男」だけなんだな?女だってイレクス・グアユサ飲むんちゃうんか!!!!!!

(38頁)「朝のぼんやりした気分」

頭と朝は「ぼんやり」「すっきり」「しゃきんと」、食事は「たっぷり」「おなかいっぱい」、小鳥は「ちゅんちゅん」、見るのは「じろじろ」、曇りは「どんより」、気分は「「け」だるい」、… お前らは定型語句しか使えんのか?日本語を腐らすのヤメてくれます?

(40頁)「人びとが朝コーヒーを飲めば得られと信じている」

飲料の効用ごときで宗教化するな。何でもかんでも「信」じさすな。

(41頁)「コーヒー、いかが? 私はベッドで寝ている夫にささやきかける。彼を驚かせたくはないけれど、外のまぶしい光や七〇デシベルもある目覚まし時計のアラーム音よりは、」

全身全霊で気持ち悪い!!!!!!日本語がここまで気持ち悪くなった時代は後にも先にもないだろう。「いかが?」といちいち付けてる「?」が気持ち悪い。寝るのがいちいち「ベッド」なのが気持ち悪い。物言うのにいちいち「ささや」くのが気持ち悪い。「ささやきかける」というのが気持ち悪い。「彼を驚かせたくはないけれど」は日本語ではない。外が365日ゼッタイ「まぶしい」んか?!!!! 「七〇デシベルもある」みたいに気取って数字出してくるのが気持ち悪い。71デシベルでも69デシベルでも絶対ないんだな?!!!! ただ「音」でいいのにいちいち「アラーム音」なのが気持ち悪い。

(41頁)「目覚めて数秒のうちに、私たちは星を目にし、朝露の香りを嗅ぎ、シーツの重さやコットンシャツの柔らかな肌触りを感じ」

起床時に「星」を見るのは、おまえのお花畑満開のアタマの中だけに居る「私たち」だからな。誰も朝露など匂わない。「露」に匂いは無い。露が付いてる草が香るんだよ!!シーツは重くない。コットン綿などという原始的で不便なシャツは着ない。ポリエステル100だよ。どっちにしろ、別に「柔らか」くなくていい。

(44頁)「ベーコンの芳香がまさにそれだ。〔略〕夏の朝を思い出す。〔略〕作家のプルーストに幼時を思い出させたというマドレーヌの話はあまりにも有名である。〔略〕〔略〕」

ポピュラーサイエンス 電波による電波の電波のための出来損ない「ぽえむ」。キレイゴトって、気持ち悪いんだぞ。排気ガスの匂いでドンムアン空港思い出したらあかんのか。

(47頁)「甘いものが大好きで困り果てている人もいれば」

「甘いもの」が「大好き」(「大」かどうかをなぜお前が決める)なぐらいで「困り」「果て」る「人」などいない。なぜ「困る」とだけ言えない?困るにはなぜいちいち「果て」ないといかんのだ?お前、考えて書いてるか?

(50頁)「神に祈ることはないし、子守歌を歌うこともなければ」

類人猿に対してであっても、クソ擬人化を断じてやめろ。また、お前らの文化圏の行動をやらせるな。いちいち「神に祈」らせるな。お前は「子守歌を歌」っている人間を見たことがあるのか。そんなやつどこにもおらんし、いたら気持ち悪いだけだ。

(52頁)「答えはおそらくノーだろう」

間投詞をカタカナ語にする意味を説明しろ。

(52頁)「偉大な心理学者だったウィリアム」

いちいち「偉大」じゃなくていい。「偉大」かどうかはこっちが決めることだ。

(52頁)「めかし込んだり、ランチを用意したり」

「ランチ」も日本語ではないが「めかし込」むも当世誰も口にしない。

(56頁)「二〇〇五年、科学者たちが有名な楽曲(ローリング・ストーンズの「サティスファクション」や《ピンク・パンサー》のテーマ曲など)のサウンドトラックを聴いている人の脳をスキャンした」

この21世紀に入って、何がなぜどうして、60年代の化石骨董品を聴かせる!!!!!その、すぐ出土遺物を持ち出してくる異常レトロ病をやめろ!!!!

(60頁)「二トンもある鋼鉄の弾丸が疾走する高速道路」

自動車と弾丸は、形状も・質量も・運動も・目的も・効果も、全然まったく似ていない !!!!! 喩えがヘタクソなのなら、するな!!!!

(62頁)「有名な「ゴリラの着ぐるみを着た人」の実験〔略〕シュートの回数を数えるなど」

シュートサイン

シュートサイン

  • AKB48
  • 発売日: 2017/03/15
  • メディア: MP3 ダウンロード

あの実験で数えるのは「パス」の回数だ!!!あの映像で「シュート」を決めることは1度もないしゴールも設置していない!!!!!

全文筆人に告ぐ
うろ覚えで書くな

(64頁)「西暦一〇〇年、プブリリウス・シルスは〔略〕この古代ローマの詩人が」

気取った言い換えをするな。真似する奴が湧く。いやもう5兆人ほど湧いてくさってやがるがな。

(65頁)「この体内時計は気が散ると精度がぐんと落ちてしまう」

形容語句でしゃべるな。擬音語でしゃべるな。印象を書くな。数値でものを言え!!

(70頁)「くねくねと曲がる二本の線のあいだに」

形容語句でしゃべ … 数値でものを言え!!!!!!!!!!!!

(73頁)「びっしり文字の詰まった書類を読むあなたの」

お前らは、なにがあってもゼッタイ、関係節を愚直訳するな!!!!!これが気持ち悪い日本語だという感覚もないんか!!!!!!!!!

(74頁)「シェイウィッツ夫妻は、文字を読むことにかかわる脳回路を研究している」

いきなり「シェイウィッツ夫妻「は」」なんて言われても知らん。こんなとこで「は」を使わない!!!!

(77頁)「身体は学校にいるかもしれませんが、脳は家の枕の上なのです」

といったクソキモ比喩を欧米言語が書くと、日本語が欣喜雀躍マネしだす。

(13頁)「体を構成する主要なパーツがリズミカルにテンポを刻んでいる」

これは何語だ?キモ人用のキモ語以外の何だ?

(10頁)「空腹や疲労、運動、知覚、セックス、睡眠、」

その気色の悪い語を使うな!!!

 

肉中の哲学―肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する

肉中の哲学―肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する

  • 作者: ジョージレイコフ,マークジョンソン,George Lakoff,Mark Johnson,計見一雄
  • 出版社/メーカー: 哲学書
  • 発売日: 2004/10/01
    内容はとんでもなく面白いしAmaレビューのアホどもが間違ってるが翻訳も極上。

(618頁)「思いめぐらし、いつも愛、セックス、仕事、死と道徳性について懸念を抱く」

気持ちの悪い言葉を使うな!!!

 

バグる脳 ---脳はけっこう頭が悪い

バグる脳 ---脳はけっこう頭が悪い

  • 作者: ディーンブオノマーノ,柴田裕之
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2012/12/19

    夢中でかじりついてしまうおもろい本。

(25頁)私たちがセックスを楽しんだり
(89頁)セックスのときの無上の

キモい!!!

 

啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

(76頁)司書はセックス、暴力、食べ物に
(90頁)ぼんやりとでもセックスを連想させるもの
(131頁)だから私たちの無意識はセックスと暴力にあんなにも

 やめんか!!!!きしょい!!!

 

心の仕組み 下 (ちくま学芸文庫)

心の仕組み 下 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:ティーブンピンカー,Steven Pinker,山下篤子
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2013/05/08

    内容もクソであり全く面白くない。

(482頁)「セックスをめぐる騒ぎがなんなのかわからない子ども」

そのゲロきもい言葉を使うな!!!!!!

次回の記事に続く

 

シリーズ欧文訓読の歴史 (2)

 

前回の記事から

さて我々は、前回の記事で予備的に予示された諸問題の地平を貝間見たことによって、さしあたって(「さしあた」らなければならない!峻厳な副詞„zuerst“を副詞愚直訳思考によって「いちおう」「とりあえず」などと訳すことは許されない!)、李白や徒歩にも比すべきフィヒテによる自俺と非俺の調和せる、耐えなる調べを観ぜよう。

不協和音

不協和音

  • 欅坂46
  • 発売日: 2017/07/19
  • メディア: MP3 ダウンロード

Dochロガ aberナガラ istスル es nunmehr, alsトシテ Ich, da, – es verstehtデアリ sichカラ fürニトッテ einen möglichen Beobachter; undシテ hier gehtッテイル denn die Grenze, wo das Ich三– alsトシテレ– lebendigesノアルモノ sich unterscheidetサレ vomカラ leblosenノナイ乙– Körper, in welchem allerdingsナガラ auch ein Trieb seynスルコトガ kann. – Es istテイル etwas下– da, fürシテ welches下– etwas da seyn könneトイウ, ohnerachtet es fürニハ sich selbst noch nichtナイ da istシテイ. Aber fürシテハ dasselbe ist nothwendig da eine丙– innere treibende Kraft, welche aber, da gar kein Bewusstseyn des Ich, mithin auch keine Beziehung darauf möglich ist, bloss gefühlt wirdレル.こっから引用しとるからな

ところがしかしながら今や自我は自我として現有する(それは、1人の可能的な考察者〔←って何やねんボケ、書いてておかしい思わんのか〕にとって自ずから自明であり、そして、実際ここに、その中に或る衝動も存在することがしかしながらできる生のない身体から自我が生のあるものとして区別される境界が行っている。)それが対自的にはまだ現有していないにも関わらずそれに対して何かが現有することができるという何かが現有している。しかしながらこのものに対しては必然的にそこに、しかしながら、自我の意識は、ゆえに意識への関係も全然不可能であるから、単に感じられる所の1つの内的な駆り立てる力がある。

全学学初歩

 

ここで我々は我々の方法   論   が没落する有様を目に食いしばらなければならない。我々は我々の悟性的演繹の限界に於いて、返り点の体系が維持されえない彼岸の岸辺に横たえているであろう。いずれにせよ、今上掲した章文のごとくは、すべてが間違い尽くした気持ちが悪くて仕方のない翻訳日本語であるが、そうは言いつつも、我々は、「嘔吐」とか「吐き気」とか文学がホザきながら実際に吐くわけでも何でもないことを起想しつつ、だるなってきたんでもうここr次に、我々 広告 皇国民が先験的決意性において前触れ的に先取された、現存在の時塾を決意付ける日本語(?)を、レッシングに於いて探しに行ってみよう。

Wennナラ es下– wahr istアル, daßトイウコト das Schreien beiテノ Empfindung körperlichen Schmerzes, besonders nach der alten griechischen Denkungsart, gar wohlラク mitッテ einer großen Seele bestehenスルコトガ kann: so kannキナイ der Ausdruck einer solchen Seele die Ursache下– nichtガデ seinアルコト, warum dem ohngeachtetラズ der Künstler in seinem Marmor dieses Schreien nichtイノカノ nachahmenスル wollen; sondern esナイ mußチガイ einen乙– andern Grund habenアルニ, warum er hier von seinem Nebenbuhler, dem Dichterデアル, abgehetレル, der dieses Geschrei mitッテ bestem Vorsatze ausdrücket.こっから引用しとるからな

身体の痛苦の知覚に際しての叫びは、イ良い日ン マ とりわけ古いギリシャの思考種類によると、イ良い日ン マ とても恐らく1つの偉大な魂を伴って存在することができるということが真であるならば、アググン このような魂の表現は、それにもかかわらず、山の奥 なぜ芸術家は彼の大理石の中でこの叫びを模倣するつもりがないのか 山の奥 の原因であることができない。アググン 彼はここで、この叫びを最良の意図を伴って表現する詩人である彼の間男から離れる1つの他の根拠があるにちがいない。

助六

我々は我々に託されたこのようなイセンスドス デ日本語を 考察する おちょくり倒す継続してゆく続行性のゆえに、我々は生まず玉ゆず前進を心みるをしなければならない。しかしあんまこんな記事にしていると ヒンシュクを買うから ページが重たなってきよるから(もう現時点でCSSたいがいイガんどんねん)、一旦はここまでにすることにする。

そしてヘルダーリンである。世の無量大数の熱烈アホたちを狂喜させて来たヘルダーリン犬ぞりから『ハイパーいってる῾Υπερίων〕』を公刊して後、ロッテとの熱愛の末に拳銃自殺を遂げてから、5大陸をヨットで登頂し、アメリカ大陸を発掘したヘルダーリン、拳銃で自殺した後には、夜店で金魚すくいをリンゴ飴で射的していたヘルダーリン、毎朝3時に石油と兎でうがいしていたヘルダーリン、拳銃で頭を撃ち抜いた翌年、ロシア革命を成功に導きつつ硫黄島プレデターと決戦したヘルダーリン、拳銃自殺の後にも、4月になると競馬新聞を買い漁っていたヘルダーリン、再生回数8000万年を記録したヘルダーリン、小学校に侵入して針金からセロテープを作ろうとしたヘルダーリン、1晩で7,00万個のラズベリーパイを組み立てたヘルダーリン、203年にThreadripperの予言を登場していたヘルダーリン、それから拳銃で自殺してしまい、天下第一で八つ橋を注文したとの理由で国会に逮捕されたヘルダーリン、桃から生まれて竹に還ったヘルダーリン、CIAの面接に74回落選したヘルダーリン関西電力と皇室と教室の株をすべて売却したヘルダーリン、拳銃で自殺しながら、月面から千早赤阪村まで歩いて通っていたヘルダーリン、新幹線とハンムラビ法典を発明した角でノーベル賞に起訴されたヘルダーリン西行空海に株式上場を持ちかけたヘルダーリン、拳銃で自殺してから後にはコピーか切り取りかで迷っているヘルダーリン、真空を真空で切断することに成功したヘルダーリン、独自の方法でニュートリノを解釈していたヘルダーリン始皇帝カルボナーラを作らせて噴水のアルバイトに応募したヘルダーリン、夜店の金魚をスーファミのYボタンで集めようとしたヘルダーリン、いつも校門の所で梅干し職人と待ち合わせしていたヘルダーリン、毛糸の毛布を編んで大西洋をイカダで遭難したヘルダーリン、拳銃自殺に成功してから、周恩来シュルレアリスムを教わってアカデミー賞に立候補されたヘルダーリン、彼の書きこみによって、我々は、不断の緊張にさらさされられるだろう。々我は、ヘロイン常用者とヘルダーリン愛好者とを識別するいかなる有効な手段も持たない。

それでは効いて見よう。ヘルダーリン作曲で、

長く死体でそして深く閉鎖していて
筆者の心臓が美しい世間に挨拶します
彼のツヴァイクたちは咲くそして出る
新しく生物力によって膨張させられて
おー筆者は生物の中ににまだ向かう
どのようにして空気と光の中へとから
筆者の花たちのハッピーな努力は
かさかさした豆さやから折れます。

お富さん

Lange tot und tiefverschlossen,
Grüßtスル mein Herz dieニ– schöne Welt,
Seine Zweige blühn und sprossen,
Neu vonヨッテ Lebenskraft geschwelltラレテ;
O! ich kehre noch ins Leben,
Wieシテ heraus inヘト Luft und Licht
Meiner Blumenタチ selig Streben
Ausカラ二– der dürrenシタlse brichtマス.

こっから引用しとるさかいな

その青年の酒飲みが
全部で上しながら伊豆からから
神聖などぶろくを伴って仮眠から人々たちを起こしながら来た時に、
四万十川の浜は友達たち神の優勝をヒアリングした。

作者の仕事

Des Ganges丁– Ufer hörtenシタ des Freudengotts
Triumph, als alleroberndガラニ– vom Indus herカラ
Der junge Bacchus kam, mitッテ heilgem
Weine vom Schlafe die Völker weckendガラ.

こっから引用しとるさかいな

このアルカイオス詩節(Alkäische Strophe)に於いて、ヘルダーリンによる凡神論によって返り点の体系がもはや維持されさせられ得なくなるという悲の劇を告白しなければならない。もはやふたたび、返り点には二重(?)交差が不可能であることをここに証されたであろう。こうして以てhiermit、単なる訓読の限界内における返り点の続行不可能性の必然性を認識性するのである。しかしながら、交差を能うる限り之回避するならば、もはやふたたび、必然性を伴って、訓読の本質が輝き出でるのである出光。

Froh kehrt der Schiffer heim an2– den stillenッタ Strom,
Von Inseln fernherカラ, wenn er geerntet hatッタ;
So kämダロウニ auch ich zur Heimat, hättッタラ ich
Güter so viele, wie Leid, geerntet.

こっから引用しとるさかいな

愉快に船乗りは黙った流れに
島たちから遠くから帰宅します、彼は刈った時に。
そのように筆者も、私は貯蓄のそれほどたくさんを悲しみのように
刈ったら実家に来るだろうに。

実家

 

Du stiller Aether! immer bewahrstスル du schön
Die Seele mir im Schmerz, und es adeltニナル sich
Zur Tapferkeit vor deinen Strahlen,
Helios! oft die2– empörte Brust mir.

こっから引用しとるさかいな

おたく無音のエーテル、あんたはいつもきれいに
筆者の霊魂を痛いのなかで保存する、そしてそれは
あんたの放射の前で気丈夫へと関白化する
ヘリオス、筆者の逆らわれたバストがしばしば。

神たち

  

Wenn der Dichter einmal des Geistes mächtig ist, wenn er die3– gemeinschaftliche Seele, die allem gemein und jedemニモ eigen ist, gefühlt und sich zugeeignet, sie festgehalten, sich ihrer versichert hat, wenn er ferner der freien Bewegung, des右– harmonischen Wechsels und Fortstrebens, worin der Geist sich in sich selber und in anderen zu reproduzieren geneigt ist, wenn er des schönen im Ideale des2– Geistes vorgezeichneten Progresses und seiner poetischen Folgerungsweise gewiß ist, […]

こっから引用しとるさかいな

作者は一度マインドに力があれば、彼は皆さんに同じで誰にも特殊である所の共同体の人魂を感じて自分にマッチさせて彼女を固定して彼女を確信したら、彼はさらにフリーの運動、その中にマインドが自分を自分本人の中でと他のの中で再生産するのに合っているハーモニーの交代と前努力と、彼は前描写された進歩のマインドの理想の中の美しい何かと彼の作者の推論旋律を確かとすると、〔後略〕

上からマリコ

次回の記事に続く

 

ハッピーオーラ

ハッピーオーラ

  • けやき坂46
  • 発売日:2018/8/15
  • メディア: MP3 ダウンロード