地上最強のブログ

しばいてくぞ

なぜ誰も言わないのか④ ~それは「嘘」なのではなくて認知的不協和とそれを解消しようする言動である~

 

前回の記事から

嘘や虚言というのが思われているものではないということも誰も言っていないことだろう。と言うか、嘘だーうそつきだーそれは嘘だーガーガーと言う時、なんでこの人は嘘をつくのかと非難している時、に何が起きているのかをちゃんと指摘している者があるだろうか。

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まず言っておくがこの記事に書いたように嘘をついていると本人がはっきり意識して明示的についている嘘はまったく問題になることではない。それは法的にどうのこうのなることであって、いわば刑事の対象であって、一方、悩まれるようなことがあるウソ、嘘だと非難したくなる嘘、いわば民間事的な虚言は、こちらのほうは、法的にのみ どないというものではないし、そういう法的な形式的な約束的なカタチ的な宣言的手続き的なものではなくて、人的な内容的な認知的なココロ的な身体的運動的なものである。

さっさと本題を言うと、傷付ける(←怒らせるのまちがい、コワイ腹立つのまちがい、かなしいムカつくの間違い))嘘は、ついてるほうが嘘と思っていないか気づいてないか認めようとしないか知識や自覚が足りない嘘、そんな嘘である。

それは間違っているのに、事実じゃないのに、この人は事実に合わないことを信じようとしている、事実を見ようとしない、といったようなかなしmイラつきが有って、それで、嘘つきだ あいつは嘘を! あのさ嘘をつかないでくれるかな どうして嘘を! そうやって嘘ばっかり… 云々々々々の非難をする気になるのである。つまり、虚言で私をたばからないでとイラついているのではなくて、虚言で自分をたばからないでとイラついているのである。そのソレが嘘になっている事に気づいて!という言い分が、嘘を付かないで!という(極めて拙い)言い分の実相である。

この時相手は嘘をついているという自覚がない……ただ、こう言い出してこれを断言して論を張り出したら、世に出回るボケ発言ボケカス本のやっていることになってしまう。自覚がないというより、自分が事実に反していたり事実を見ようとしていなかったりしているのを自覚は一応しているのだが、それでもそうじゃないと(無言語的に)自分に言い聞かせている、そんな状態である。

御存知、認知的不協和、認メタクナイ!!!の状態である。

(ちなみに言っておくが他のありとあらゆる全心理学の用語や概念同様、と言うか如何なる全ての学術の用語や概念と同様、認知的不協和というのも、どこかの国の知らない誰かに起きている歴史的なんだかんだ事件であるのではまったくないからな。これを読んでいるお前、お前が息して屁ぇこいて生きてしている人生24時間の間おまえに起き続けている超普遍的で非超普遍的な普遍的なことがらだからな、間違うなよ。

例えば今の場面に合わせて言うなら何かしらページを(特にニュースページを)開いてみろ;そこで、自分が見たくない言葉・自分が興味を寄せたくない文言・自分が認めたくない字面・自分がコミットしたくない話題が一瞬でも目に入ると、自分の顔 いや眼球だけでもいいがそれがコンマミリそこから反れようとする、そんなんを確かに観察できる。或いは如実に反れる。ウェブ閲覧のほとんど毎分で起きていることだ、これのたびに、認知的不協和がお前の中で起きているのである。

どこまで普遍的で日常的なものであるか、よう分かるだろ。)

そして!!!御存知の文章:

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„Das habe ich gethan“ sagt mein Gedächtniss. Das kann ich nicht gethan haben — sagt mein Stolz und bleibt unerbittlich. Endlich — giebt das Gedächtniss nach.

(Nietzsche, Jenseits von Gut und Böse, 4/68)

 

(確かにした事は間違いない、それはアタマでは分かるのだが、キモチでは認めたくない。そんな時には、往々にして、キモチのほうが勝ってしまい、していないということになってしまう。)

これは、あのニーチェ認知的不協和について述べた文である、と述べているのをどこかで見たことがあった。のだが、ググってみてもろくに何も出ず、

Werbe- und Konsumentenpsychologie

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が見つかり、226頁で、「kognitive Dissonanz」と述べながらこの文章を挙げており、そうして、記憶を捻じ曲げて認知的不協和を解消するものだが、そのことを意識もしない、都合の悪いことは思い出せないものである、と述べている。

こうして、自分がしたのじゃないと言い張ることになり、そんな「嘘」を「つ」くことになり、そうして、なぜ嘘をつくんだよと非難され、なかば認めつつもそれでも頑として認めず、何とも言えなくなる。双方譲れない。嘘つき非難の現場である、ご賞味あれ。

自分がしたこともそうだが、不協和な不快感は、もちろん言うまでもなく何にでも及ぶ。見たことを認めたくなかったら・言ったことを・見ていないことを・知っていないことを・欲しがっていたことを・逃げていたことを・考えに一致しない証拠を・否定してくる意見を・勝ってくる相手を、いや何よりも、自分がしたことが意味がないと証してくる事を認めたくなかったら、そんな不都合なモノは是(それと気付きさえしないで)全身全霊で憎みおぞけ倒し、身の毛もヨガって拒絶し、そんなものは知らないと言い、そんなことは知ってますよとホザき、それは私じゃないとがんばり、それは私なんですよと間違う。… ←うそをつかないで!

↑ これが、お前と人類とその他を悩ませる「嘘」たる「嘘」、おまえが「嘘」と言っている時の嘘、そう言ってその語に意味を持たせている時の嘘である。つまり、吐いている嘘ではない嘘、少なくとも自覚と意識をもってついているとは到底言えない他称「嘘」、である。

それは、自分にも心当たりあるはずの不協な不快状態に苛まれている相手、それを解消しようとしている相手、その「身勝手」さに腹を立てているのである。なんて身勝手な腹立ち!!!おまえは、不快感を脱するために事実を認めようとせず、自分に対して折れてきてくれはしない他人のその「身勝手」な「エゴ」に傷つけられ憤っているのである。うむ、どう見ても、身勝手なのはおまえのほうだ。非難者のほうが、自分をタナにあげて、自分だってその時にはそうするだろうところの行動を他人が取っているのを、とやかく言っているのであり、とやかく感じているのである。

書いててアホらしくなってくるようなバカバカしいバカ芝居であり、ちんちんにポン酢でもかけたくなってくるものだが、こういうものである。この事をどこの誰もついぞ論じておらず、いや知りもせず、この 墟うそウソ墟ウンゐそうそ墟墟墟墟の三文芝居に今日もうつつを抜かし ぬか漬けを柔むのである。つまり半アホがアホであることに気付かず完アホがアホを棚に上げてアホをアホアホしているだけ、それが、「嘘」「吐き」にまつわるすべてのすべてだ。お前がアホでないのなら、もうええかげんやめろ。

誰だって、不協和をかかえる。誰だって、それをする日が来る。誰だって、お前になる。お前だって、誰にでもなる。ヒト個々体の差異など、無いにも等しい。本当のサルのほうがずっと「個」の意味がある。「ひと」「と」「ひと」とお前と人とはそんなにちがわn……ぜんっぜん違わん!!!大聖人と私とに違いは無い、大悪人と私とに違いが無いのと全く同様に。そのぐらいの単純生体的事実ぐらい、知っとけバカ。

というわけで、嘘だー!!ギャー!!うがー!ドピュッー!!という日々演じられるクソ喜劇は、喜劇なのであり、自分タナに上げ合い合戦なのであり、身勝手が身勝手を身勝手するアホボケカス芝居なのであり、卑劣で悲惨で邸能で便覧で便通な無知蒙昧ゲームなのであり、意味も中身も一切まったくない、かかずらう値打ちもする価値も金輪際まったくない、勘違いの勘違いによる勘違いのための勘違いなのである。

なぜ誰も言わないのか③ ~作品とはソフトウェアなのであり「人」というハードウェアの時代が終わってすべてがオープンソースという時代になっている~

 

前回の記事から

他の例としてこんなシリーズなんかも読んどけ(←この記事じゃなくてこのシリーズだ)。

誰もがそれについて知っているつもりで、結構な言葉を費やしてきたつもりでいるが、しかし実は他人と同じかおんなじようなことを喋っているだけで、そういう見方もあるのかという見方を滅多にしない。したらいいししたほうがいいのに、しない。他の記事でまた論じるが、人間は他人と同じことをするのが大好きで、ほっとくと全体主義をやってしまうサルなのであり、多様と自由を主調にする民主主義というシステムはこのサルには難儀でいとも億劫なのである。他人と違うことはしんどいしんどいしんどいしんどいシステム2の仕事なのである。勘違いしてはいかんが全体主義は何体制下でも成立するし現に今世界中で成立している。それがこのサルの自然だからだ。

そういえばお笑いでも次の区別が付いていない:芸人の「腕」がハードウェアならその「ネタ」はソフトウェアである。そう考えると、ソフトウェアの時代にまだまだ適合していないサルなだけに、この分野でもソフト開発がおろそかなのが判る。

ハードウェア、すなわち物体、ブツ、モノ、作れる人が作り、作れるという「人」に専有され、技術が必要で、技術ある「人」がいるかいないかの問題になってしまい、「人」が大事なものであるという、というか「人」が単位であるという原始的で退行的な見方に留まってしまうもの、それをできる「人」できない「人」の差別と占有と私有と独占をもたらし反民主主義的に傾いてしまうもの、そういったモノ一辺倒だった時代から、誰もが参加できる(ものであるしそうでないといけない)ソフトウェア的なものの時代になっていっている。

でお笑いだが、その芸や漫才はその芸人がやるからおもしろいのだという限りでは、その芸人というハードウェアに意味が占有されてしまう。ネタそのものがそこまででも「腕」「で」おもしろくできる(つまりハード頼り)だとか、ネタも確かにおもろいがその芸人=ハードがやってこそ笑えるんだというようでは、ハードウェアしか見えていない時代のまんまだ。

一方腕や特徴やキャラがそこまで極端に立っていてそこまでその「人」が取り立てて印象的でそこから人気につながりその「人」があってこそというのでなくその人たちが提供するネタやコントが特におもしろくてネタやコントのほう自体のそっちのほうがまず何よりも第一であるというタイプがそんなに居るだろうか、そういう風にして芸やお笑いを見ているだろうか。

これまでの人生と動画サイトで見てきた限りでは、なかなかいない。特徴的でネタが際立っているという場合でも、その人たちがやってこそというのが大方だ。中川家サンドウィッチマン、クールポコ。、昭和のいる・こいるオール阪神・巨人、ノン・スタイル、インパルス、どれだけ笑えるネタをやっていても、この人ら以外が同じことやったらどんなものなものだろうか、そもそも出来るのだろうか(例えばが〜まるちょば)。そのソフトウェアは(どの程度)普遍性があるか。漫才でコントをやっては漫才の意味もないものでそう考えると「話」に徹しているナイツが一番漫才の定義に適っていると言えるが、やはりおんなじこと、他がこの人らのネタをやったら、同じクオリティになるだろうか。(ところで世評定評はなんぼあっても東京03笑い飯も千鳥もかまいたちバナナマンもオードリーも特に笑えず、ダウンタウンも漫才だけは少しもおもろない(漫才以外は最高、喋ってて一番おもろい人ら)。8時やドリフは全く興味ない。他、色んな話題に触れないが、触れる場ではない。勿論どういった芸人がいい悪いの話をしているのでない。あと、何を述べているにしても、他人と同じことを喋るなと主張している本ブログが偏ったこと以外のことを述べていては意味がないこと、中立公平とかいう偏ったことをする気など毛頭ないこと、こんなことはいちいち言わすなよ。)

以上の見方からすると、別にその人らが際立っていないというわけではないものの、何よりもまずネタそのもののおもしろさがまずありきと見えるのがアンジャッシュということになる。おそらく、ここまで完全完璧に完成されたコントなら、他の誰がやっても、つまり一定水準以上の類似ハードウェアに積みさえすればそれが何であったにしても、同じぐらいかそこそこおもしろいだろう。いや仮に激ショボのハードで走らせてしまったとしても、つまり素人がやったとしても、この人らのネタ=ソフトなら、結局は十分に機能してしまいそう、つまりものすごくおもしろくなってしまいそうである。それが、ソフトウェアの意味だ。そう、アンジャッシュは史上最高のソフトウェア開発者なのである。別々に活躍し出してキャラが立ちすぎて「人」が特徴付きすぎてしまったら逆に価値がなくなった、と言えるほどに(「大島(嶋)」確立が2人の凋落の終焉であってそれ以外ではない)。

確かに、パンクブーブーの日本語特色利用ネタ、チョコレートプラネットの大工やポテチ等、フットボールアワーの肉じゃが、ミキの味噌醤油カレー、等々々々々、人や腕というかコント自体が際立っていて作品としてネタの出来が凄いというもの、そういうものの例はいくらでもあるのは勿論そうであるが、どの人らも、アンジャッシュほどの作品点数を残しているだろうか。そしてハードウェア非依存的になっているだろうか。

この2人はそれこそあと半世紀ぐらいコンビで活躍してあと100000000000本ぐらいはコント作品を提供していて欲しかったものだ。そうだというのに、短期間だけ咲いて後は(ネタ作ってコントすることをしなくなって)開発を停止してしまった。実に、惜しむらくも惜しい「天才的プログラマー」的な人たちでありソフト供給者であり、verkanntとしか言いようがないソフトウェア開発陣であった。

以上においてどれだけむちゃくちゃなことを言っていて議論がいいかげんすぎても、別にいい。言いたいことが提示できていて通じていさえすればそれでいい。言いたいこと、例えば、ちゃんと、以上の観点にもとづいた上で自分のモノを提供しているだろうか。できているだろうか、ということ。

そう、自分の発信することは・発表するものは・授業は・プレゼンは・話は・書き物は、自分という人間に依拠し依存してしまっているということはないだろうか。芸がその人あってこそのものでは、何の意味もない。トスカニーニフルトヴェングラー。共有されることがヨリ容易でなければ、文化としては値打ちがない、それがソフトウェア的な時代の特徴だ。文化はミームであろうが!!!!

誰かの耳

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「人」や師匠やマエストロや職「人」や名「人」や「天才」や「〇〇さん」がハバを利かせていた時代は、終わっていく。人がクルマを運転していた間違った時代が終わっていくように。教員なら、「先生」にこそなってはいかん。供給者(発信側・製造側・提供側)だろうと、消費者=生徒=学生=バイヤー=受け手だろうと、誰であろうとどの立場だろうと誰もが同じソースにアクセスできて誰もが同じものを同等に共有できるししないかん知と知識、その獲得、そういう時代に、そんな現代に、トップダウン的で名人芸的なプレゼンや授業などしていては、時代遅れの阿呆も甚だしい。

上述お笑いと話はまったく同様、なぜその人がそのすんごい優れたことが出来るのかは分からないがとにかくその人がそれが出来るのでありその人に任せておけばいいのであるという暗黙と秘匿と密儀と専有と独占という時代、差別が有る時代、それは終わ(らなければならなくな)っていて、オープンソースという時代に移っているのである。授業で提供する知は、(おそらく)相対性理論なり(おそらく)アンジャッシュ作品なりと(おそらく)同様、誰にも共有できて共通理解できて誰にも使用できて応用できて誰が使っても優れた効果を発揮して容易に瞬時にアクセスできて完全公開されているものであるはずのものでなければならないし、あるしかない。特定の「人」と「腕」に偏り頼り独占されてしまう時代、カリスマというオカルト信仰の時代、つまり原始時代は終わっているのである。

次回の記事に続く

 

なぜ誰も言わないのか② ~ミームとヒト個々体は別物である(甘い物は冷たくて辛い物は熱いの法則)~

 

前回の記事から

これはこの記事で述べている問題の延長であって、つまり、知というのは寄せられるところには寄せられているもの、いや寄るどころかむしろ偏るものであって、宇宙万物の諸対象に万遍なく拡がることが絶えてなく、無いところにはまるで無く空白地帯が異常にたくさん出来てしまい、その上、知が寄せられて当然というところに寄っているのでもなければ、顧みられない話題が実際顧みるに値しない他愛のない話題であるというのでもなく、みんなが関心があり論じたがる話題はただみんながそうしているからという以外に実はいかなる根拠も権威もないものであり、空白地帯は理由があって空白であるのでもなんでもないものである、ということである。

↑ のリンク先記事を見て、確かにそういうことは論じられてないなとかまとまった説明体系確立されてもいないなと思えれる者がいたとして、おそらく、同時に、しかしまあそういうのは重要なことではないんだからそんなもんなんだろうだとか、よくよく知られ取り上げられているものはそれだけの値打ちがあるものなんだから仕方がないんだろうだとか脊髄反射でホザき出し自分に嘘を付きだすだろうが、けだし、アホがやるブラーブラーにして健常者の(すなわち真の)作話という脳障害であるにすぎない。

何度も言うが、問題になっていなかったり奇妙に知から抜け落ちているものは、たまたまそうなってしまっただけのもの、ヒトというろくな仕事のできんボンクラ猿(が偉業を成しているかのように見えるのは、それこそまさしく前記事に掲載した本に書いてあることだが、ミームとか文化とかいった諸個人集合仕事が存在しているというだけのことであるにすぎず、個々体はこれはどこまでいってもあくまでボンクラの〇ンカスなのである)がボン〇ラにも見落としてくさらしているだけのものなのである。

例えば不図思いつ〇たが(そしてお前は不図1000000例ぐらい思いつけ、そうやってこのブ〇グを読むようにせえよ、さよかー 鼻ホジーと読んどったらあかんぞオ〇ドレ)、なんで甘味て冷たいもんばっかなんだろな。

食事で体作りという無意味で無効果の愚行に用のない自分でも体重が減るのがイヤでたまらんからカロリー稼ぐつもりでジャンク食に手を出すものだが、そういうのにやっぱアイス

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が多いのだが、そこで思う、なんで「アイス」であって「ホット」でないんだ?甘味系だと菓子パンでもジュースでもふつうは常温かそれ以下だ。甘いものと言えば冷やしたものと決まっていて、熱いものや温かい(←「あたたかい」は世界一キモい日本語であり、自販機の「あ(た)ったか~い」表示は公衆猥褻罪にして国家侮辱罪である)などは例外的なものだ(無いと言ってるのじゃない)。

反対に辛いものは普通大抵大体おおまかには、熱いものと相場が決まっている。凍らせた激辛メニューなど存在しない。

「五感」同様「五」(ぐらい)の「味」もバカらしい分類なのだろうが一応それに合わせて言うと、苦いもので冷たいものもまず無い。塩辛いものもそう、この2者は常温前後がまず普通(そうでもないものもそこそこ有るのは分かってる、いちいち言わすな)。あったか目の寿司がなぜ存在しないか(つめた目も存在しない)。しかし茶や珈琲や乳や精はアツアツもキンキンもギンギンもありなのだし、そうすると、味がそこまで関係しているかとも言い難い。

こういう分類は、とんと聞かない話である。飲料や料理の適正温度云々とかならなんぼでも言う。麺がさめるのびるとか、冷やめしとかあつあつとか、ピザがどうのとか夕焼けこやけでまた明日とか、誰でもしゃべることなら、誰でもしゃべる

が、誰もしゃべらないことでそれでいて明らかに意味ありそうな分類や傾向が有り、おそらく統計的有意性さえあろうものが有る。それについて何故そうなのだろうという考察も研究も成り立つだろうことなのに、誰も発言している気配が無い事柄が、有る。

例えば今なら誰もそれについてしゃべっていず喋ろうともしていないことについて書いたが、すでにそれについて(おそらく)多くの言葉が費やされていてそれのことを(おそらく)何人もが書いて述べて論じてしているようなことであったにしても、それもまた別に問題があって、何のことかと言うと、そこでも、よく見ると、結局は、どいつもこいつも他の奴と同じような言葉を使って同じような口調で同じような評価を同じような媒体で発しているだけという、繰り返しに繰り返しを繰り返している繰り返しアホ猿の生態を開陳しているだけということがほとんどなのである。

クラシック評論は膨大な蓄積があるような気がする。量が多いだけで、どいつもこいつも、ほぼ全くおんなじ横ならっびの口調と見方で喋ってしかいない。ポリーニの評価は定まってしまっており、そうでない事を仮に言うとしてもその口調はクラシック評論の語り口調の外に出ない(しかも出たら出たで、何故なのか決まって、お花畑満開の道化芝居に堕してしまいやがるものだ。他の何のジャンルでもそうだ、特に思想や哲学を口当たりよく柔らかい言い方で解説しようとする文章、常に必ず、ダダ滑りしよる。アホにしかなってない)。

例えばオーディオと関連して論じる時にオトを聴くことと音楽を聴くことの区別すら付いていない。音楽自体を聴いて体験するのなら音質などほぼまったく関係がないことをほぼまったく誰も理解していない。音質体験と音楽精神体験の区別もできていないことを指摘する文章を見たことがない。

ゲーム評論が沢山ある(のだろう、知らん)が、物語やストーリーを独特な観点で論じている文章など存在しているだろうか。例えばエニックスドラクエとそれ系(ホーリィアークなどのシャイニングシリーズにせよ何にせよ)が一神教が基本で神を讃えるストーリーなら、スクウェアSa・Ga系とそれ系が、一神または多神の神(々)に歯向かいこれを殺害すらしていくというストーリーであるのだが、こんな対比で二大人気作とその系列作の特徴を論じた文章など存在しているだろうか。していないだろう。

次回の記事に続く

 

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