地上最強のブログ

しばいてくぞ

なぜ誰も言わないのか③ ~作品とはソフトウェアなのであり「人」というハードウェアの時代が終わってすべてがオープンソースという時代になっている~

 

前回の記事から

他の例としてこんなシリーズなんかも読んどけ(←この記事じゃなくてこのシリーズだ)。

誰もがそれについて知っているつもりで、結構な言葉を費やしてきたつもりでいるが、しかし実は他人と同じかおんなじようなことを喋っているだけで、そういう見方もあるのかという見方を滅多にしない。したらいいししたほうがいいのに、しない。他の記事でまた論じるが、人間は他人と同じことをするのが大好きで、ほっとくと全体主義をやってしまうサルなのであり、多様と自由を主調にする民主主義というシステムはこのサルには難儀でいとも億劫なのである。他人と違うことはしんどいしんどいしんどいしんどいシステム2の仕事なのである。勘違いしてはいかんが全体主義は何体制下でも成立するし現に今世界中で成立している。それがこのサルの自然だからだ。

そういえばお笑いでも次の区別が付いていない:芸人の「腕」がハードウェアならその「ネタ」はソフトウェアである。そう考えると、ソフトウェアの時代にまだまだ適合していないサルなだけに、この分野でもソフト開発がおろそかなのが判る。

ハードウェア、すなわち物体、ブツ、モノ、作れる人が作り、作れるという「人」に専有され、技術が必要で、技術ある「人」がいるかいないかの問題になってしまい、「人」が大事なものであるという、というか「人」が単位であるという原始的で退行的な見方に留まってしまうもの、それをできる「人」できない「人」の差別と占有と私有と独占をもたらし反民主主義的に傾いてしまうもの、そういったモノ一辺倒だった時代から、誰もが参加できる(ものであるしそうでないといけない)ソフトウェア的なものの時代になっていっている。

でお笑いだが、その芸や漫才はその芸人がやるからおもしろいのだという限りでは、その芸人というハードウェアに意味が占有されてしまう。ネタそのものがそこまででも「腕」「で」おもしろくできる(つまりハード頼り)だとか、ネタも確かにおもろいがその芸人=ハードがやってこそ笑えるんだというようでは、ハードウェアしか見えていない時代のまんまだ。

一方腕や特徴やキャラがそこまで極端に立っていてそこまでその「人」が取り立てて印象的でそこから人気につながりその「人」があってこそというのでなくその人たちが提供するネタやコントが特におもしろくてネタやコントのほう自体のそっちのほうがまず何よりも第一であるというタイプがそんなに居るだろうか、そういう風にして芸やお笑いを見ているだろうか。

これまでの人生と動画サイトで見てきた限りでは、なかなかいない。特徴的でネタが際立っているという場合でも、その人たちがやってこそというのが大方だ。中川家サンドウィッチマン、クールポコ。、昭和のいる・こいるオール阪神・巨人、ノン・スタイル、インパルス、どれだけ笑えるネタをやっていても、この人ら以外が同じことやったらどんなものなものだろうか、そもそも出来るのだろうか(例えばが〜まるちょば)。そのソフトウェアは(どの程度)普遍性があるか。漫才でコントをやっては漫才の意味もないものでそう考えると「話」に徹しているナイツが一番漫才の定義に適っていると言えるが、やはりおんなじこと、他がこの人らのネタをやったら、同じクオリティになるだろうか。(ところで世評定評はなんぼあっても東京03笑い飯も千鳥もかまいたちバナナマンもオードリーも特に笑えず、ダウンタウンも漫才だけは少しもおもろない(漫才以外は最高、喋ってて一番おもろい人ら)。8時やドリフは全く興味ない。他、色んな話題に触れないが、触れる場ではない。勿論どういった芸人がいい悪いの話をしているのでない。あと、何を述べているにしても、他人と同じことを喋るなと主張している本ブログが偏ったこと以外のことを述べていては意味がないこと、中立公平とかいう偏ったことをする気など毛頭ないこと、こんなことはいちいち言わすなよ。)

以上の見方からすると、別にその人らが際立っていないというわけではないものの、何よりもまずネタそのもののおもしろさがまずありきと見えるのがアンジャッシュということになる。おそらく、ここまで完全完璧に完成されたコントなら、他の誰がやっても、つまり一定水準以上の類似ハードウェアに積みさえすればそれが何であったにしても、同じぐらいかそこそこおもしろいだろう。いや仮に激ショボのハードで走らせてしまったとしても、つまり素人がやったとしても、この人らのネタ=ソフトなら、結局は十分に機能してしまいそう、つまりものすごくおもしろくなってしまいそうである。それが、ソフトウェアの意味だ。そう、アンジャッシュは史上最高のソフトウェア開発者なのである。別々に活躍し出してキャラが立ちすぎて「人」が特徴付きすぎてしまったら逆に価値がなくなった、と言えるほどに(「大島(嶋)」確立が2人の凋落の終焉であってそれ以外ではない)。

確かに、パンクブーブーの日本語特色利用ネタ、チョコレートプラネットの大工やポテチ等、フットボールアワーの肉じゃが、ミキの味噌醤油カレー、等々々々々、人や腕というかコント自体が際立っていて作品としてネタの出来が凄いというもの、そういうものの例はいくらでもあるのは勿論そうであるが、どの人らも、アンジャッシュほどの作品点数を残しているだろうか。そしてハードウェア非依存的になっているだろうか。

この2人はそれこそあと半世紀ぐらいコンビで活躍してあと100000000000本ぐらいはコント作品を提供していて欲しかったものだ。そうだというのに、短期間だけ咲いて後は(ネタ作ってコントすることをしなくなって)開発を停止してしまった。実に、惜しむらくも惜しい「天才的プログラマー」的な人たちでありソフト供給者であり、verkanntとしか言いようがないソフトウェア開発陣であった。

以上においてどれだけむちゃくちゃなことを言っていて議論がいいかげんすぎても、別にいい。言いたいことが提示できていて通じていさえすればそれでいい。言いたいこと、例えば、ちゃんと、以上の観点にもとづいた上で自分のモノを提供しているだろうか。できているだろうか、ということ。

そう、自分の発信することは・発表するものは・授業は・プレゼンは・話は・書き物は、自分という人間に依拠し依存してしまっているということはないだろうか。芸がその人あってこそのものでは、何の意味もない。トスカニーニフルトヴェングラー。共有されることがヨリ容易でなければ、文化としては値打ちがない、それがソフトウェア的な時代の特徴だ。文化はミームであろうが!!!!

誰かの耳

誰かの耳

  • SKE48
  • 発売日: 2018/12/11
  • メディア: MP3 ダウンロード

「人」や師匠やマエストロや職「人」や名「人」や「天才」や「〇〇さん」がハバを利かせていた時代は、終わっていく。人がクルマを運転していた間違った時代が終わっていくように。教員なら、「先生」にこそなってはいかん。供給者(発信側・製造側・提供側)だろうと、消費者=生徒=学生=バイヤー=受け手だろうと、誰であろうとどの立場だろうと誰もが同じソースにアクセスできて誰もが同じものを同等に共有できるししないかん知と知識、その獲得、そういう時代に、そんな現代に、トップダウン的で名人芸的なプレゼンや授業などしていては、時代遅れの阿呆も甚だしい。

上述お笑いと話はまったく同様、なぜその人がそのすんごい優れたことが出来るのかは分からないがとにかくその人がそれが出来るのでありその人に任せておけばいいのであるという暗黙と秘匿と密儀と専有と独占という時代、差別が有る時代、それは終わ(らなければならなくな)っていて、オープンソースという時代に移っているのである。授業で提供する知は、(おそらく)相対性理論なり(おそらく)アンジャッシュ作品なりと(おそらく)同様、誰にも共有できて共通理解できて誰にも使用できて応用できて誰が使っても優れた効果を発揮して容易に瞬時にアクセスできて完全公開されているものであるはずのものでなければならないし、あるしかない。特定の「人」と「腕」に偏り頼り独占されてしまう時代、カリスマというオカルト信仰の時代、つまり原始時代は終わっているのである。

次回の記事に続く