地上最強のブログ

しばいてくぞ

知ったふうな口をきくな (1)

 

前回シリーズのハナシをわかりやすくするためにイメージを提示しよう。ここに、自分の信じること知ってること、自分がそうだと思い言える一定の確信、それに外界や他人が整合するか迎合するか併合できるかどうかを日々日夜の刻一刻と嗅ぎまわり探査して回っている飢えた半狂獣または徘徊ロボットが居るとして、これが、朝起きてから夜寝るまで、朝食べてから夜パコるまで、昼折ってから夜パコるまで、揺り籠から風俗まで、夜明けから風俗まで、あの日から門真市まで、おぎゃあと奇声を上げてから風俗まで、「おぎゃあ」と「泣」く謎生物を発見するまで、「ぎゃふん」と「言」う謎生物を発情するまで、河川で「どんぶらこっこ」という音響を発生するまで、一生の間と今日一日中の間、我執の血まなこを迸らせ己おのれ己おのれの病的衝動に突きパコられて、あたりをウヨウヨしている、これが、現実というところで起きていることである。この化物をここで「自分」と呼んでいることは便宜上の呼称にすぎない。それが特に誰かや何かの自分であるとか、「自己」という独特な有り方をしている存在者/物であるとか、意識を有している特殊な生物であるとか、いや、何らかの個体であるとか人間であるとか何かコレと言えるコレであるとかいう話は、実はクソどうでもいいのであり、はじめから一切まったくしていない。そもそもそんなにそないにウレシそうに恍惚狂喜して「人間」というものを見て「人間」という単位を絶対視するという迷妄の妄信がそもそも間違いである。そこに居る群衆が「人間」「たち」でなければならない絶対の理由など何処にも微塵もない。血流たちかもしれず細胞たちかも知れずヒト状他生物たちかも知れない(↓ 読んどけ)

失われてゆく、我々の内なる細菌

失われてゆく、我々の内なる細菌

おしゃべりな腸

おしゃべりな腸

  • 作者: ジュリア・エンダース,岡本朋子,長谷川 圭
  • 出版社/メーカー: サンマーク出版
  • 発売日: 2015/05/25

し、別に生物個体を見ようとしなくてもいいもので、その群衆を構成している諸タンパク配列や窒素配分を見ているのかも知れない。そんなに個人個体の人格自己にコダワる気はないしこだわっていてもアホらしいだけである。「人間」妄信から目を覚まそう。お前も私も「人間」や「自己」であることにそない気違いにこだわらなくてもいい。バカが「人」「様」を祭り上げてきた不幸な迷信の歴史が有る、コトはそれだけのことであって、視野の拓かれた現代人なのなら、事物と人間をもっと解体して見てみよう。といったその上で言うのだが、この地球上全域が自分病マシンの徘徊地域である。そのマシンの実体などは知らないしどうでもいいし無くていい。ただただ、自分に対して世界は合ってんのか、この世は自分ランド国王を慰撫慰労してくれるのか、という欲情をたぎらせてゼーハー息巻いている自分病がウヨウヨしており、一生の間出会えるのがこいつらのみであり、こいつらのヘドロに浸かって溺れてそれを飲んで出してとやってくのが人生であり、これが現実というところで起きていることであり、そう見るのが正鵠であるというだけのことである。それが「えごいずむ^q^」なのか「ゆがんだじこあい^p^」なのか「りびどーのどうたら^p^」なのか「そうぞうりょくのけつじょ^p^」なのか「〇〇型人間^p^」なのか、そんなクソのクソ未満にクソどうでもいいこと、アホどもの紋切り型文言による・紋切り型出版収益専用の・紋切り型文章ゴミの、これは使い古されたステレオタイプであるという意味以外のいかなる1ナノ事実も無い糞ゴミクズクソ談義には、一切まったく何の用もない。ついでに誓って言ってパコってこますが、このテの語彙を使ってる本は1字たりとも読む価値がなく意味がなくそこからは何も学ばない(最も低俗卑糞な例だと『クラッシャー上司』(PHP新書)系のゴミ未満のゴミ)。自分病に、どんな幼少期を過ごしたかなど何の関係もない。男女「脳」云々のバカ話も何の関係もない(いまだに男女脳差異を信じてるアホどもは、この記事にアフィ貼った本でも読んどけ)。国民性も県民性も何の関係も無い(し、そもそもこんな「民」云々などはこの世に存在していない)。社会的立場も階級的地位も何のカンケーも無い。年収もモテ度も「幸福」(←完全意味不明)もIQも「貧困」もインフラもボウフラも「うつ」も靴も筒も井筒も構えつつも何の関係もなく筒井あやめ、自分は金川沙耶推しである。いいか、口を酸っぱくオーラルして何℃も何億度m

次回の記事に続く

 

だって 雨じゃない?

だって 雨じゃない?

  • トランジットガールズ
  • 発売日: 2015/11/25
  • メディア: MP3 ダウンロード

めんどくさい自分病患者たちへ (8)

 

前回の記事から

動であろう。他に何を言ったらいいというのだ。

自分自分自分自分の自分最優先の自分病というのはどんな場にもはびこっている。効率や労働力が優先事項である場でまともに効率や労働力が考慮されることなどない。そんな機能的でシステマチックな行動など、感情がすべてのヒトザルには出来ない。例としてはもう知られに知られ尽くしている話であり組織論会社論グループワーク論からイジメ論職場論の定番であるから、今は、明示的に挙げられたことがないであろう例を挙げてみよう。例えば、今日来たばっかりでもうサクサク手が動いてて午後にはほとんどの社員よりも速くなってしまっていて労働や生産量という点から見たらただただ有難いという派遣君一日バイト君が来た時に社員や先住パートバイトが示す反応というのは、99%が、排斥しようとする冷ややかなもの、一言でいうとひたすらイケズをするとか黙殺するとかいうものであり、0.00000001ミリでも評価する風を見せないというものである。よう働いてくれるな有難うなと言える者など、100現場に1人もない。これが、バイトが配送助手などだったりして評価者が1人だけだったりすると、素直にホメてきよること多々である。そら、数10人に1人増

フェルメールの手紙

フェルメールの手紙

  • Not Yet
  • 発売日: 2014/04/23
  • メディア: MP3 ダウンロード

えるのと違って自分1人だけにもう1人増えるというのは知覚し承認し感謝せざるを得ない変化をもたらすからな。一方この場合でもホメて来はせずむしろ冷ややかにもなる奴いやそれどころか機嫌悪くなり出す奴すらもいるが、こいつが何故こうなのかというと、自分の能力が脅かされる恐怖心のゆえだと説明されがちなら、もう1個言うとくと、【バイト君の働きはこんなもん】という自分の信念体系信条図式固定イメージを揺るがされて不愉快だからである。こいつは、労働という客体がどう進むかなど、何の関心もないのである。今日も一日どれだけ自分ワールドの平和が侵されずにいて自分様立法が証明されているかのパトロールをするために出勤しているのであり生きているのであるこれらかもそうやって生きていくのである。自分気違いの自分マシンだが、しかしこうなのである。上記現場もので言うなら、思いの外テキパキできるバイト君というのは、職場に居る奴らにとって、自分の職場という自分ワールドの信念信条にそぐわない外敵なのである。まつろわぬ者なのである。だから不愉快にしか感じないのである。職場の「和を乱す」、ではない。そんな「和」なんていう客体的なモノなど成立していない。それを自分内でイメージしている個々の信念化物の自分怪獣がうようよしているだけである。こいつらには、「働き」など、「成果」など、どうでもいいのである。自分の信念が気持ちよくて自分が気持ちよくて自分さえよければいいのである。誰も、客観的なもの・物・事物・事柄になど、興味がないのである。これが職場というものであり残念ながら人類社会というものである。

こんなクソな話題はもうええから、自分病の明白な弊害を1個挙げておこう。上で、「区別」と言って、個々の事柄の区別と個々事柄と全体把握の区別のいわば2種類の「区別」を設けていて、多義的に言葉を使いよるなと思っただろうが、言っとくが、言葉や議論てのは多義的で多様可能的で無限に様々なのであって、それが本来の姿なのであって、「一言で」「ストンと」理解におさまるような理解など理解でも何でもなく理解の皮をかぶった偽物なのであり、物事とは理解こそできないものなのであり、現実とはああ言ってもこう言ってもハズれるのだから無数の方向から色んなことを言い続け続けなければならないのであり、ようするに、いかなる意味でも「まとめ」てしまう奴や「まとめ」てしまいたい奴はコトを勘違いしたアホなのであり何も分かっていないのである。そういうのは断じて諦めろ。だから世間世上書き込み他人メディア家族友達が異口同音にしゃべり書いていることはその固定性のゆえにゼッタイに間違っている中身ゼロのクズ標語なのである。例えば自分病の話をこうやってしていると、ああ「自意識過剰」とかの!その話!とかホザき出すバカが湧くだろう。そんなことだ。オイおまえ、「自」「意識」を定義してみろ。なんていけずは止めておいても、次のことは言わざるを得ない:そんなおまえがそうである自分病ですが、これは、自を意識しすぎ且つまた自を意識しなさすぎてしまうことが問題なのである。自分を忘れ去ってしまうのである。自分病とは自分を棚に上げ切ってしまうことでもあるのである。何も「過剰」じゃない。むしろ「欠如」だ。つまり世界が自分一色になると同時に、ってかこうなることがその時点で、自分が世界一色になるのである。自分に起きていることが世界に起きていることという手前勝手な絶対確信をしてしまうのである。自分に起きることは世界に・物事自体に・一般に・人一般に・他の誰にも起きてしまうと無造作に思い込んでしまう。これがまた自分病なのである。「自意識過剰」とかホザいてる思考停止のアホ水準から随分遠くに来ただろ。

例えば、こんな目に遭いました談の多くが、それ おまえしか遭わんのちゃうんかと思えてくるものである。これはここここここなどで論じたことだが、カモられハメられダマされる者というのは、そうされるだけの、いかにもナメられやすくツケこまれやすくよわっそうな風采をしているものである。累計半年以上のパッカー旅行中、「危ない目」に遭ったことが一度もない(サン・ペドロ・スーラを夜に長々歩いたりもした)し、その気配すら感じたことがないし、一銭たりとも盗難に遭ったことがないし、暴力に出くわしたことがない。一方で、そんな自分も歩いた或る首都でたった1人のしかも素手のおっさんにしかも往来上で襲われ殴打され強盗されたパッカーが居た。ひ弱そうだった…。しかし、こんな目に遭いました談の多くが、こんな者が書いているのではないのだろうか。自分の特殊事例だと分かっていず、あたかも人類一般に普遍的に起こりうることの一事例であるかのごとく報告しよるが、これは、その国・その地域・その時間帯・その「治安」の問題というより、こいつの問題ではないのだろうか。こ

誰よりそばにいたい

誰よりそばにいたい

  • 乃木坂46
  • 発売日: 2018/01/10
  • メディア: MP3 ダウンロード

れは弱い者いじめのいけずな論じ方だが、反対もある。例えば、この人たちにはこのような出方をするとすぐこんな反応をしますねえやる気のない人たちですと言ってしまうような場合、これが自省してみると実はそんな反応をされるのは特に専ら自分なのかも知れない。自分だから、ちょっと強めに出ると異様にすぐ反発され引かれてしまうのかもしれない。上述の奴と反対に、反発を招くような強めの風采になってしまっているのかもしれない。それは考慮に含めただろうか。自分の見え方を勝手に引き算してはいないだろうか。世界の事にする前にまずどんだけ自分限定の事だったのかを、ちっとは考慮していただろうか。結局、自分が何を体験しても、それは特にその自分だから・斯く斯くな風に見える自分だから・斯く斯くな印象を与える自分だから、そうであるからこそが故に体験することなのであり、どんな反応が返ってくるにせよ、そんな反応が返ってきやすいがちな見た目喋り方印象の自分だからこそ返ってきた反応なのである、ということを考えてみていただろうか。勝手に人一般の事象と勝手に一般化しているのではないだろうか。

 

よく、ドイツ語をやってるというと、「話せる」の?とホザいてきよる。話せるワケないだろボケ!!!なんで他言語を勉強するのにいちいち「話」す能力を習得しなあかんねん!!!!!おまえアッシリア語やってるゆうてもおんなじこと聞くんか!!!!… と言ったとしても、このバカには、皆目通じない。このバカからしたら、がいこくごをべんきょうしているひとというのはぺらぺ~らのぺらぺ~らしゃべっている、そんなイメージが浮かんでハイ終わりでそのカスイメージの他の何も一切まったく思考せず想像もしないからである。もちろん、特にドイツ語なら、自分がそうであるように、カントなりヘーゲルなりを読みたいという文献読解目的で取り組み出す者が多いという動機がおそらく明治頃から我が国には連綿とあるのだが、そんなことぐらいを知る者も、我が国には、ほとんどまったく居ない。… まあもうちょっと言っとくと、要するにこいつも話聞く気ない・他人の外語学習に興味などあるわけがないから社交挨拶で話セルノ?を繰り出しているだけなのだろうがな。アホの内心などどうでもええが。

めんどくさい自分病患者たちへ (7)

Es wird fortwährend von uns sehr viel empfunden und sehr viel gedacht (erinnert, phantasirt), was nicht zum Bewußtsein kommt. Es ist geringerer und schwächerer Qualität, und reicht aus.

(Nietzsche, 1881,11[93])

 

(ヒトの脳は24時間絶え間なく莫大な情報を受容し厖大な情報を処理し想起し加工しているのだが、ほとんど全部が意識にのぼらない。意識とは低品質の粗悪品であり、個体生存に必要なだけのことしか出来ない。 

ニーチェ

 

前回の記事から

祥事に関するモノを読んだり視聴したりしたら、部屋の外のすべてが武器と悪意と不良少(/中/高)年とセクハラと汚職と冤罪に満ちていると思い為してしまう;それらのモノは現実世界のごくごくごくごく一部の事象を切り取ってきて取り上げているだけであり何ならそう断ってすらいるものであるというのに。

そして、そんな自分の欠陥認知のままに物事を考えるから、そんなバカでいるものだから、他人もまた自分と同じバカにしか見えない。そうして、暴力的ゲームをやればその子は暴力的になると思い込んでしまう;そんな視野狭量のバカはてめえだけだよ(読んどけ)。「悪影響」な話をすれば出席者たちが染まってしまうわと心配し出す;話ごときに影響されるバカはてめえだけだよ。こういうバカが、各種各所のプレゼンや講義や集会やテレビ番組にクレーム垂れるのである。バカには他人も自分にしか思えない

コトはもっばらパカに関することなのだから、ムリもないかも知れない。実際、1つのケースにおいて一定の傾向を示したら他のケースでも十把一絡げにその傾向を示すという一辺倒バカ、何か1つの特徴を示すと他の類似特徴を芋づる式に示すバカというのがうようよ居るのであり、こいつらをしばしば見て知っていたら、また自分自身がこいつらであるなら、そら個

チョコの行方

チョコの行方

  • SKE48(teamKII)
  • 発売日: 2013/03/06
  • メディア: MP3 ダウンロード

々個別のケースから全体全部を推断虚妄するバカにもなってしまうわな。ムリもない。こいつらには、(どれほど演技でも)品行方正で「あいさつ」できるのなら義務のごとく人徳高邁でなければならず(しかし拾った財布は届けない)、子供や小動物やその他愛玩対象なら義務のごとくかわいく従順でなければならず、子供なら義務のごとく外で元気に遊びみんなと仲良くしていなければならず、国民なら義務のごとく所属国を誇り周辺国を中傷しなければならず、公僕医師専門家警官議員なら義務のごとく上級人間様々扱いしなければならず、国民なら義務のごとく軍隊自衛隊が自国を「守る」という詭弁と錯覚に心酔しなければならず、男には義務のごとく女を当てがっておけばよく(御存知ヤ〇ザの発想)、運動の機会を奪ってでも高齢個体は義務のごとく電車座席に着席していなければならず、健康診断が健康を作ると義務のごとく妄念しなければならず、野外学習や実験や生体解剖で学ぶことは義務のごとく世界と人類と人生の真実でなければならず、合州国に関することなら文化も政策も西部劇も糞アリアナも糞ネーヨも糞ジャクソンも義務のごとく崇拝しなければならず、そして、嫌韓と中国誹謗と日本軍占領地歓迎論とホロコーストなかった論と戦争モノ軍記モノ軍神モノ南方戦モノ賛美礼賛と反韓と絶韓と対韓と割韓と朝韓と夕韓と生保無職非難と日教組罵倒と反在日と反大学と反ゆとりと反蒟蒻畑と反表銀座尖閣諸島北方領土と北側朝鮮と北川綾巴と北川愛乃と北川悠理が義務のごとく密接一体のワンセットになっていなければならず、これらのどれか1つにはコミットするが他の全部または数点はクソ未満だよボケという態度を取る人間が存在してはならないのであり、そうして、「リベラル」(←?!)は、義務のごとく「左翼」でクイアでネコでタチで低収入で反国家で反官僚で反公権力でマルマル主義で反市場で環境論者で教育論者で温暖化論者で反原発で反石油で反太陽で反電気で反空気で反公共事業で反核で反対で半袖でついでに反日でなければならずこれらのセット鎖の1輪でも外れる人間は想像すらされてはならないのである。アホすぎて物も言えないが、続けよう。(もちろん、せとチャレ!イ申テレビSTUでんつ!がんばりまSU!セトビンゴ!もセットである。全部観ろ。)

半分の記憶

半分の記憶

  • けやき坂46
  • 発売日: 2018/06/20
  • メディア: MP3 ダウンロード

多分こいつらには、脳を退化させないIT機器やSNSやゲームがあってはならず、低収入の医者と弁護士がいてはならず、ゴルフに興味がない役員がいてはならず、堅物封建おやじのフェミニストが居てはならず、「人肌」が「恋」(←書いてて気持ち悪くなってくるぞ)しくない冬季と人間が存在してはならず、浮世離れしていない学者が居てはならず、髪を振り乱していない作曲家指揮者がいてはならず、反体制的だと不健康でなければならず、衛生的だと親体制的でなければならず、反権力的だと喫煙者でなければならず、モザイクをかけてはならない。こいつらの思考停止ワールドの中ではすべてがステレオタイプののっぺり一辺倒理解に併合される。実際には、この部分ではこうで一方この部分ではこうでというのが人間の現実である。クルマに乗らない・ゴルフもしない・ハゲてもいない・麻雀もしない「部長」のおとうさんだっているだろう。宝石だけは付けないマダムだっているだろう。礼儀が完璧で朝のあいさつだけはしないという青年もあるだろう。腕時計だけは何万もかけるが他のおしゃれは無頓着という者だってあるだろう。空想の中では長年危険人物なのに現実の人間にだけはいつまでも一向に向かわないという者もどこかには居るだろう。サディストではない動物苦痛実験者だっているのだろう。スプラッタ大好きの菜食主義者だっているのだろう。メタリカマンソンドッケンベビーくそくらえというメタル大好きもいるだろう。「リズム」「感」(?)が全然なく速泳の名手という「黒人」もいるだろう。探せば凶暴なレトリバーだって居るだろう。甘えてくる巨大ヒグマだっているだろう。鳥とたわむれる猫だっているだろう。短パンで金髪の教師だっているだろうし、元不良で不良生徒が大嫌いな教師だっているだろうし、朴訥で悪筆な予備校講師だっているだろう。風俗通いの頑固職人だっているだろう。年中白衣にネクタイという小説家だっているだろう。眼鏡をしていない日本人だってネクタイをしていない日本人だっているだろう。ヒッピーをやらない葉っぱも居るだろう。不気味にならない廃病院だってあるだろう。代官と癒着しない越後屋もあるだろう。書く文章だけ乱暴だが人当りはフツーという者だってあるだろう。公衆の前では何でもずばずば言うが個人には物柔らかという者だってあるだろう。見た目や物腰は柔和なのに話すとエラソーで失礼で人格欠損者という者などイヤというほど居ること周知の通り。

しかし、こんな、実際現実はどうなのだろうかということなど、誰も考えない。いや本当に考えていない。本当にそこまでステレオタイプの奴隷なのだから、例えば周囲にどれだけ日本語学習中または習得済の中国人が居てその日本語を聞いていても、またどれだけ膨大な中国の映像を観てしかも現地に行っていても、あくまで、「中国人」には、「アルよ」と喋らせチャイナ服を着せ自転車大量通勤をさせ山奥道場で修行させるのである。自分がおかしいことをしていても、それがわかってさえいても、ステレオタイプに当てはまらせようとし、ステレオタイプに当てはまらないなら、現実から目を背けるばかりか、ときには憤慨すらする。そうして例えば電化製品店が夏季にセミの音声を垂れ流し誰も文句を言わない。やがて桜や花火や雪や紅葉が養殖されるだろう。誰もかれもステレオタイプの中に生きるのが心の底から大好きなのである。こんなバカな生物に、どれだけ、少しでも慎重にと願っても、今のケースを過剰一般化する前にと説いても、事態は細かく切って考えようと諭しても、区別する神経を持ってもらうことなど、未来永劫 期待できない。のっぺりべっちゃり一辺倒の乳幼児世界に生き続けるのである、この種は。今/このケースこの行為という特殊事例から全事例と普遍的法則を勝手に即断し、そうして「他者」を「殺害」し続け可能性を抹殺し続けるのである。

そして相手をヒューリスティックで抹殺調理し人間をステレオタイプで片付けるだけのヒトザルたちが何故このようなのかというと、自分病だからである。自分の認知体系認知能力を超えることを1ミリもやりたくないモノグサの化物なのである。人を見たらどろぼうとしか思えず、そう思ってハイ終わりでいいと思っているのであり、いや思ってもいないのである;そんな意識なども無い。

意識など、誰にもない。思考力が片鱗でもあればどやつも今より遥かにマシでまともである。自転車を停めるときにはちょっとでも奥に停めるという意識、こんなんもない。こうして、両側駐輪してる駐輪場は通路が狭くなり歩きづらくなり、誰も苦情を言わず不便に感じず、しかも実は不便に不快に感じながら、自分も同じことをする。(という例など、今たまたま偶然なんとなくテキトーに考えもなく不図思いついただけの一例にすぎない。何の意識もなくクソぼっっっけーーーと生きてるボンクラたちがそんなボンクラであるがゆえにお互い相互に迷惑を掛け合っている邸能にも程がある事例、社会や街中が発狂したセイウチの密集した群れ状態になっている場面、そんな、何千億個と思い付く例を自分で思い付いた上で読んでくれよ、くれぐれもな。)意識がまったくない生き物という言い方でしか説明できない行

次回の記事に続く