地上最強のブログ

しばいてくぞ

めんどくさい自分病患者たちへ (6)

 

前回の記事から

界とウラノスが生んだ究極の化(クソ)物にして最終の糞壺を見てみよう。とまで書いても何ら大げさではなく、ハードル上がったことにすらならない。そこまでこいつはクソだ。

それは、めんどくさがっている本人にめんどくさがっている自覚がないままにめんどくさがっているという、大脳と神経システムの自動機構のなせるワザ、すなわち
認知が区別をめんどくさがるという宿業である、拍手!!!!!

例えば何かについて或る判断を下してそれを特に口にして明言したりなどすると、聞いている側が、この人は《そもそも物事に関してそのような判断をしてそれを口にするような人なのだ》と勝手に一般化して今現在の特定のケースを勝手に他のケースにまで押し広めてしまい、個々のケースや別のケースではどうなのかと慎重になることを一切サボってしまう、というようなことがある(と言うと、「というような」ことを問題にしているのであって、つまりこれに類する事柄、これの類縁である事柄、認知をサボるという事柄そのものをこれから全般にわたって問題にしていくと言っているのであるが、これが分からないアホというのがほんまに居るもので、このアホ、例えば今なら、《書き手はこれから会話上のことをなにか述べるのだろう》などと誤解しやがるであろなのである。「のようなコト」と「のコト」とが全く違うこと、一例は一例にすぎず一般的議論の一布石に過ぎないことが分からないような、そんな区別のできないアホが居る)。

例えば、ここや・ここや・ここApple製品をクソ呼ばわりしているが、仮に今(←「仮に」だ、間違うなよ)もしこれを誰かに言ったとすると、こいつは確実に、アアコノ人ハ何カノコトヲ悪ク言ウ人ナンダと勝手に解釈する。するんだよ!!!何か個別のことについて言っただけなのに、その判断傾向が概して物事全般に押し拡げられてしまい、そういった判断をそもそも何に関してもするような人であると推断されてしまう。何かをすることと何かをするようなこととは全く違うのだが、これが、アホには分からない。されたほうはたまったものではない独断と偏向であるが、それを誰しも毎日刻一刻とやっているのである。そしてこれだけではなく、このサボりのアホは、アアコノ人ハひとノ(!!)コトヲ悪ク言ウ人ナンダと解釈し出し、コノ人ハ私ニ対シテモモチロン(!!!!!!!!!)コンナ攻撃的ニ出ルノダロウコワイコワイと虚妄し出すのである。この人が、無名個人からの罵倒など寸毫も影響しない大企業に関してだけそれどころかその製品傾向に関してだけ非難の言葉を口にするのであって他の事柄や人物に関しては一切悪く言わない人かも知れないではないかという可能性を考えること、少なくとも他の批評発言も1個1個聞いてみないと実際どうなのかはわかったものではないかと考えることを、アホは、認知でもって、全力でサボる。

ものすごく一般的に言っても、その人が何をするのであるのかというのは、その人の全人生全行動を完全個別に集計でも取らない(取れと言っているワケではない)と、最終究極にはゼッタイ分からないのであるが、まず、そんなことを知りもせず、考えもしない(という話を口真似はできても)。次に、そんな集計はムリなのであるから仕方なく一例から傾向を・部分から全体を推断するのであるという判断の致し方なさも、(クチ真似はできても、)特に自覚してはいない。そして、その致し方のなさのゆえに慎重さをサボっているのではなくて認知と脳に組み込まれたプログラムのゆえにサボっているのであるということも、その人に関してはもうちょっと慎重に個別のケースを見ることが実はできるという状況認識も、その人の発言にまつわる外的要因の情状酌量(本心をしゃべってるのでなく何かにしゃべらされてるかもしれないとか、その発言をする習慣が付いてしまっているだけかもとか、たまたまさっき癪に障ることがあっただけかもとか…云々)も、アホは一切考えず一切サボる。されたほうはたまったものではない独断と偏向だが、それをお前らは毎日刻一刻とやっているのである。組み込まれた認知欠陥、ヒューリスティックだからである。

つまり、何かについて非難する口調でものを言うと、【そもそも物事に文句を言う人であり危険な人でありその刃を自分にも向けてくる人である】と妄想されてしまう思考停止、そんなヒューリスティック、これである。これは日常で溢れかえっており、さすがに例示するのもはばかられる。この思考停止により、たった一度でも怒りを表せば犯罪者予備軍とされ、歪んだ顔が放映されれば全人格が悪人と決めつけられ、逆に、例えばシキタリと風習(と自己洗脳)によってそうしているだけなのに礼儀正しいふるまいと口調を数秒もやってみればそれだけで心のすべてが清く美しい人品の鑑だと決めつけてもらえる。これが「おもてなし」、そういう、観客も含めたバカしあいの化か芝居。

現在では犬派猫派ぐらいには分けるようになっているが、例えば犬だけが好きでそう態度で示してたら「動物」「好き」と勝手に判断されることもあるだろうあったのだろう。現在では、鳥にしか爬虫類にしかスローロリス(条約違反)にしか興味がないというケースも知られるようになってはいる。しかしこれは認知が進歩したのでは残念ながらなくて、ただ単に常識が定着しただけである。つまり認知はアホなまんまなのだから、結局すぐにボロを出す。例えば個別の動物に関していいように言ったりなんやかやしているとその動物「派」だと決めつけられ

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るだろう、動物全体について述べているつもりでも。ペットのようなものが是全般虐待であると述べて一般的な人間-動物関論を述べようとしても、何かの反対「派」だと憶断されるだけだろう。何が言いたいかというと、つまり、欠陥認知は、コレはコレでアレはアレと分けることがそもそも出来ないのだが、仮に万一それをするようになったとしても、今度は、コレからコレへ・コレからコレのようなもの全体へという抽象思考が出来ない。個々ケースたちの区別もできず、個別ケースと一般論の区別もできない。サボる認知というのはここまで区別ということができないアホなのである。

現在よくある例で言うと、区別できないバカはIT関係に山ほど居る。こいつには筐体もモニターもブラウザもデスクトップ画面もUEFIもキーボードもすべて、「ぱそこん^p^」だ(こいつにはスマホも「電話」で、電話も「iPhone」だ)。「パソコン」持ってる使ってると言って自分のノートパソコン(!)のことを言っているバカ、こんな奴山ほどいるわな。ノーパソはパソコンではない。オモチャだ。こいつには、ショートカットキー使っただけでも、タスクマネージャーの話しただけでも、ダウンロードサイトを利用しているだけでも、ケース開けて掃除できるだけでも、ケース開けてメモリ刺せるだけでも、ケース開けて野菜炒め作れるだけでも、十把一絡げに、「ぱそこんくわしいひと^q^」だ。

もう分かるだろう、区別ということをしない頭の弱い認知の人間というのは、幼児に似るのである。こいつらは退行的なのである。子供なら、目のまえのひとがちょっとこわいことをいったらそれだけで「わるいひと」とおもいこみそしてほかのことをかんがえないだろう。乳幼児には、世界はのっぺり平坦の一色一辺倒で、区別などなくどこをどう区切ったらいいかなどわからないし区切りなどどこにも見えない。今の視界がコンマ秒青く発色しさえすれば人生全体も青い色なのだと思えてしまう(この記事で書いた問題)。こうして、貧困や犯罪や暴力や不

次回の記事に続く

 

めんどくさい自分病患者たちへ (5)

 

前回の記事から

まり聞いてるほうが自分の初めて聞くことにまで(!)うんうんそうそう的な相槌を打ち出すことがたまにあるものだ。やがて、そいつはおろか世間も知っていない独自の見解を披露してすら、このアホは、そうや そうやな そうやねん という相槌(?)を繰り出してくるようになる。おまえの知らん話だろが!!なんでおまえが熟知しとることなっとんじゃボケ!!!!勿論このアホは「うん」とか「そう」とかの日本語の意味を忘れてしまったわけではないだろう。では何が起きているのかというと、思いつかれがちのくだらん解答すなわち事実無根のほうから述べておくと、このアホはもう聞き疲れててうわの空だというものである。一方実際に起きていることは何なのかと言うと、このアホははじめっから自分の知らない新情報を受け入れる気などなかったのであるということであり、「相手の」「話」「を聞く」気などなかったのであるということであって、こいつは、結局相手が何を言ってもたとえ自分の親を殺した自白をし出してもビクとも驚かずうんうんそうやなそうやねんとホザき続けるのである。なーも聞く気ないのである。相手に感心する気がツユもないのである。いかなる「新」にも開かれる気がないのである。自分だけが一番、こいつは自慢聞かしたる相

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手、こいつの話は聞かん、という心積もりで来てやがったのである。言うまでもなく、この何でも知ってる君のボケが、こういう者、むしろ気の毒な被害者、を生み出すのである。げに、被害者加害者を容易に取り違えない奴のほうがいないものである。)

もちろんコトは発声器官を使った会話の場面だけではまったくない。書かれたものに関してもハナシは同じで、有り体に言って我々は文章を読みなどしない。読むふりをしながら、読んでいると自分をすらダマしながら、やってることは、文章の中で、自分に通じるか通じうる情報に反応しているというだけのことである。ただ、記載されてある情報量が、会話という退行した劣った言語手段と比較すれば多量なのであるから、自分に通じうる情報つまり新情報にして学習事項たるものが相当量あることになる。読み手側にしたら書かれたものとはそんなものだ。で、書いたほうとしてはこれでいいものだろうか。誰も全部全体など受容していないのである。そんなんめんどいのである。しかるに全体全部の理解しかその1冊その1本その1記事その1コラムその1ツイートの理解はありえないのだから、そうなのだから、結局、何を書いたところで、書いた本人の思い通りに理解されることなど絶えてないことになる。ということを言うと、アホがたちまち脊髄反射で、《ああいいさ固よりそのつもりさ人と人のやりとりなんてそんなものさ完全なコミュニケーションなんてもちろんありえないよどう受け取られるかなんてのは「他者」に委ねられているのさ》などと、自己欺瞞の自分嘘つきの強がりの開き直りを繰り出すものなのだろうが、そんなタワゴト聞いていない。理解されるつもりもなく書いている者など居ないしそんな著述行為 原理的にありえない。とはいえ、他人の世界にガッツリ真摯に付き合うのはいともめんどくさいものであり、他人とはめんどくさいのである。

とにかくそうであるから、発表したモノに対してでも発表する場ででも何でもいいが、他人が反応を示した時やレスポンスしてくれた時や何か言ってくれたときやいやそれどころか好評を博した時にさえ、実は、期待できるものなど何も無いのであり、期待している何も返っては来ていないのである。そいつがそいつワールド内で勝手に誤読しているだけなのである。そいつはそいつのことについて反応しそいつのことについてくっちゃべっているだけなのである。相手に付き合うのがめんどくさいから。

めんどくさがる奴はテコでも動かせない。何てめんどくさい奴なんだ。

ところで、著述や発表ということだが、例えば、述べられていることに関して似たようなものがあるとか斯く斯くのものに関係するとか言う者が出て、しかしそいつが挙げる似たようなものFや関係あるものTが他のものPやSでも別に同じやないけということがよくある。本Xから引用して来ているがこれって本Bから引用しても同じことだしこっちのほうが先行しているのだからこっちから引用したほうがいいではないかということも、よくある。うむ、なぜ、斯様なドマヌケな関連付けや引用をするのか。これもつまりは、自分しか見えていないからである。相手の述べていることに対して(特に)自分が思いついたことを言っているだけだからである。自分の知っていることの外に出る気がないからである。ウィトゲンシュタイン仏教などとさんざんホザきよるが、別に仏教に似ているかこれに通じる西洋思想など太古より大量にある(ついでに言っとくが西田哲学がヘーゲル哲学以外に見えたことが自分には一度もない;両者を直接に関係づける論がほぼまったく存在しないが)。特にウィトゲンしか思いつかない奴と奴らがホザき作ってきた言説に過ぎない。「〇〇ⅩⅩ」、こんな恣意的な繋辞は、言ってる奴のオツムが喋りたいだけのものなのである。と言うと、そんなこと言い出せばと例を70000000000個ほど思いついただろうが、是非そうしてくれ。今自分が思いついた例から自分で考えてくれ。

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以上述べてきた自分の世界に凝り固まっているどうしょうもない奴だが、これだけはしっかり注意してほしいのだが、こいつらは自分の中の自分ランドの中の何がどないかということがすべてであって自分が納得し自分が「知」(だとして)っていればそれですべてのすべてでありそれ以外の何も聞きたくないし知りたくないし欲しないという自分病マシンなのである。例えば次のような奴はいま思いついた架空のバカなのではなくて残念ながら実際に居た奴なのだが、すなわち、(自分もやられたくないことではあるが)こやつが知るわけのない或る事柄について《当ててごらん》をやってしまって、してこやつが考えている1秒ぐらいの間にこちらがうっかり答えを言ってしまった、するとどうなったかというと、こいつは、こちらが口を滑らした答えが聞こえていてもう回答が出ているのにもかかわらず、もう考える余地がないのにもかかわらず、なんと、今のいまだに、ちょっと待って当てるわと張り切ってるのである!!おわかりだろうか。こいつは、おそらく残念ながら気が狂っているのではない。アタマはふっつーの人間である、どうやら。しかもだ。←↑と書いたことに関して、書いた日本語が読める者なら、そんなヒドい奴おらんやろ、そら相当やな、等と思っているだろう。が、つらつら思い出せば、これと同じかこれに近いことをお前の知人もおまえ自身も自分も誰でもやったことがあるしやっていることだと、思い出されてしまうのである。思い出されんよという重症の手遅れには話していない、帰れ。さあ考えてみよう。むしろ人が情報や知識に接するときの本来の態度がこのようなものなのである。客観的に事実として真か否かということをなーも見ようとせず、見るものは何と自分の中なのである、正答が出ている時点ですら!!そう、自分がまったくアンテナ張ってなかったことであろうと、自分の考えたことのないことであろうと、自分の予測しなかったことであろうと、ソレはソレであるのだからソレをソレとして聞き読み知る、などということは、おそらく誰もしないししたくないししていない。そうではなくて。自分が張ってるアンテナに食い込むぐらい引っかかるもののみに反応し、自分の考えたことのあることのみに存在を許可し、自分の予測以外のいかなる何物も見ざる聞かざるシコらざるのであり、事柄が自分の気にくわんかピンとこんものなら事柄自体ではなくて自分のオツムの中を優先しこちらに事柄を合わせようとするのである。であるがゆえに、人と話すときは、人と話すつもりでいてはならない。バカと話すつもりでいるしかない。

 

ここで、メンドクサイ病の中で厄介極まる最悪のタイプ、オツムがまともであるところの人間の全員が不倶戴天の敵としなければならないししている、害悪の総本山にして地獄の大天使長を兼ねパコり捏ねチョメる、魔

次回の記事に続く

 

めんどくさい自分病患者たちへ (4)

 

前回の記事から

ず、脚をパンプさせる強度つまり全力で漕いで登っている。これを5セット以上ほどやることで、無酸素では得られない疲労とあと発汗なんかが得られ …… とはいえ、有酸素はしょせんアホがすることなので、これ以上論じて紙面を汚すことはやめておく。

 

(そう言えば上で不図「鍛錬」と書いたが、これは体造りの本意ではない。この際いい機会だから言っておくが、身体造形なりボディメイクなりボディビルなりのための無酸素レジスタンスワークアウトを、考えもせず「トレーニング」と呼んだり、無造作に「鍛える」「鍛えてる」と言ったりするアホが大変な迷惑である。特にこの世界に無縁の無知の連中が無造作にホザきよる。あのなよう聞け、我々は「鍛」えているのでは全くない。そんな、何か「強」くするような、何かに備えるような、何かに「使える」ようにするような積りで、そんな汚くて不潔で不純な目的でワークアウトをしているのではない。勘違いするな。我々は造っているのであって、「鍛えている」のではない。おいボケ、言葉に気を付けろよボケ。いまどきのご時世、「肉体()」の強さなど何の必要もないこの時代に、そしてそんなもの無酸素ウエイト挙上トレから得られるものではないこともなーも知らないままに、「体を」「鍛え」るなどと考えもなくデタラメにホザくなよ。他にウエイト挙上等に関して「強い」とか何とかホザいてるアホもまったく同様だ。

後記:上記【H I T+直後の激有酸素】で寝れる疲労が得れてたのはこれをやった時間帯だけの問題だった。後日15時前

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後にこれをやって(しかもそれまでの2回よりも強度の有酸素)結局夜中全然寝れない症になってた。

結論:やはり有酸素運動に取り柄はない。存在しなくていいクズ運動である。

 

片方が話していて片方が相槌側という時などに後者がまあ聞いている風にしていながら表情がなくなっておりしかし時に我が意を得たりと目を輝かせる(目が輝くわけないだろバカ、電灯でも入れてんのか)、そんな場面があるのを思い出してほしいのだが、場面があるといういうより会話してる場面のほぼすべてがこんな風になっていることに気付きたい。ものごと幻想を持ってはならないもので、なんぼ一所懸命話とってそれを相手が聞いて知覚して受容しているとこちらが思いたかっても事実のほうはそうでもないもので、こちらの話というのは相手は大方は聞いていないのである。もちろん聞いてはいるが「聞いている」にお前が期待している意味で聞いているのではない。いいか、「聞いている」というのは殆どの場合「聞き流している」または「我慢している」なのである。そうやって相手は「話を聞いている」のである。苦行しとんねん。そんな中で自分にも関心のあるフレーズやワードが飛び出ると思わず反応してまうのが上記目輝き時である。これを「カクテルパーティー効果」と言う(日本では存在もしない場面を例にしたキショい名称だが、まあ我慢しとこう)。そう、誰しも、他人の話なんて、別に聞きたくないのである。それなのにそれがこの世で成立してしまっているのは、会話たる会話、情報なり情感なりの等価交換としての理念的「会話」が成立できていることを意味しているのではない。今までに5億回以上言ってきたが、ほとんどの会話というのはヒトザルがグルーミングをやっているのである。ラポートだとかレポートだとか分類する以前のことであり、そんな分類もべつに不要なのである、すんごい幼稚なラポートトークしか存在してないのだから。ただ会話によって非言語的・前言語的・反言語的・前知性的・反知性的な原初段階的情緒のつながりを毛づくろい式に確認しているのである。使ってる言葉や話題などどうでもいいのである。を言えているか・を話せれたか・を認識できているかなど、どうでもいいのである。むしろ、話している相手がであるか、と会話できたか、会話によってどのような者と仲よくなれれたかということに専ら関心がある。そういう、クラスメイトカースト査定的な、サル山の位置確認し合い的な、言語や知でも何でもない生活上の力関係や感情のためになされるのが、ヒトの会話なのである。だからほとんどの会話で話が平気で飛ぶし情報価の優先順位など何ら優先されていない。冷静に聞いとったら、どこの誰でも、何ともクソくだらない中身ゼロの会話しかしていないのである、お気付きのように。だからもちろん、客体が主体で主役で主関心であるかのような会

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話や自称「対話」であっても「情報」「交換」らしき会話であっても、事柄が純粋に行き来することなど、無い。むしろそういったくだらない会話でないときにこそくだらない権力争いに専心し出す。事柄主体らしき会話であっても、いやそういうものこそ、わしこそがわしこそがという肩肘張り合いなのでありマウンティングとディスプレイの場なのである。それもそのはず、繰り返すが、人間には、他人が話している・他人が主である・他人が他人であることが、どうにもひたすら苦痛なのであり、我慢事なのであって、そんな苦痛の種である眼前で喋ってる奴が、自分にも馴染みある・自分に近しいこと・自分の知ること・自分のキョーミ持ってること、つまり自分に関すること・自分のことを言った瞬間つまり自分が自分であり他人でなくて済んでる瞬間というのは、そらウレシいに決まっている。目も輝くわいなというものである。このように、他人と接している交わっている時にでもその他人というのを求めることを実はしないのであって、ただただ自分を確保することに汲々するのである。お前何がしたいねんというものだが、しかしそれはそういうものなのである。そんな病気の患者が人類なのである。相手の話を聞いているのじゃなくて相手の漏らした私に反応している、それが会話。どんだけ無駄で愚かな行為か、今日も一つわかったな。(ハナシを少しでも分かりやすくするためになるべく例示するが、例えば、話している2人の間に妙な事が起きるものでつ

次回の記事に続く