地上最強のブログ

しばいてくぞ

誰がエラいのか問題

Von jedem Augenblick im Zustand eines Wesens stehen zahllose Wege seiner Entwicklung offen: der herrschende Trieb aber heißt nur einen einzigen gut, den nach seinem Ideale. So ist das Bild Spencer’s von der Zukunft des Menschen nicht eine naturwissenschaftliche Nothwendigkeit, sondern ein Wunsch aus jetzigen Idealen heraus.

(Nietzsche, 1881,11[98])

 

(今からソレが何がどうなってどうなるかの可能性は無限数ある。ところが、今の自分がヨシとする自分ワールドの掟からは1つの可能性以外には何も見えない。だから、人類はこういう歴史をたどってきたものでこういうものなのですと述べるどんなに説得的で支配的な定式があっても、それは、現在主流であるにすぎない1個の見方、単なる1個の願望なのであって、マトモな知識や理論ではない。

ニーチェ

 

前回の記事から

よく分からんことも勝手に解釈して勝手に情報補填する認知機構、近刊だと、何でもいいが、

なんかにも書いてあることだが、相手に関して知れていない見えていない部分というのは勝手に補完してしまう、未知の部分は勝手に情報を埋めてしまう。しかしそれは本物の先生でもそうだろう。そいつが何手を指しても何をポンしてチンしてマンして顔を射しようと何をリーチのプラッターでカウンターしようと、何を屁をこいてあくびしてけつ掻こうがケツかろうが、その先生のエんラい行動と解釈してもらえる。シェックスピアなら、何を書いてあっても、人類叡知の結晶にしてイギリス語文芸術の精髄と思ってもらえる。クソくだらん書いとんなこのボケとどんだけ感じても、そんな感想は押し殺して、みんながエラいと見ているこいつはエラんだと思い直し、引用する。自分で実際にどう思っていたのかどこまで自分自身でそのエラさを感知していたのかそんなもの無かったのかあったのかどうかを、みーんな忘れる。そうしてこいつの本が、売れ続ける。糞ペーパーバックが並び続ける。その研究が、され続ける。

繰り返すが、自分には、シェークスピアなぞいうゴミなど、クソどうでもいい。仮になかなかイケるやないけと思える箇所が有ったら目に止めてやってやらなくもないかなという程度。そしてそれは上でリンク貼った記事に名を列挙している文豪たちほぼ全員がそうだ。その上の下で述べたようにパフォーマンスが定量的可視的に見える人々についても絶対なことなど言えないところで、感性に訴えかける創作者たちの何の序列の何をどない付けれるつんじゃというハナシである。そんなアイマイな所に本来誰が抜きん出ているだとか偉大だとかやれ「才能」だとか凡庸だとか天才だとかそんな差など有るわけがない。

なことを言われても、偉人たち研究にアグラかいてきたバカたちなり「みんな」が見てるものしか見れない池沼たちには通じるものではなくて、確実にこのように言い返してくる:いややはり大詩人大作家大企業家名選手の古典マスターピース往年パフォーマンスにはそこにしかない真実味や機知や独自の価値があるよそれだけに繰り返し読まれ観られ取り上げられ味わわれるのだよ…云々。そうだろうな、大古典名人師匠天才云々(どっかの誰かに)されているものだから(←すさまじい欺瞞て分かる?)こそ、それだけのものなのだからこそ、そこにそれだけのものが無いといかん有るにちがいない…そんな目でそれを見ていたら、そりゃ、唯一無二のモノなんてなんぼでも見つかるわな。イイものだからイイものがあると思ったらイイものが見つかる、トートロジー予言の自己成就のコンビネーション。アホとバカのコンビネーション。そこに有るのと同じようなことを同時代の何人・別時代人の何十人・別地域人の何億人が言っていたとしてもやっていたとしても、お前は、その古典の中だけにしか見つけれない。勿論、それが繰り返し取り上げられるのはそれが繰り返し取り上げられるからという底の浅いトートロジーも、一顧だに値しない。古典だから古典、アリストテレスだからアリストテレス、お前は実はそれ以上のことは何も言えていない。みんなが聴く楽団だから私も聴く、みんなが応援してるから自分も応援してる、みんなが参るスポットだから自分も参る、そしてそれはとにかくイイ、すべてが同レベル同バカ。

そうなるのは、1つには、テメエで判断するというのをサボってきたからだ。何が価値有って無いかは自分が決めてやるという毅然たる労を取ってこなかったからだ。今観ている聴いている読んでいるこのコレは、その名にまつろいコビリつく諸々の評価言葉言葉言葉言葉言葉言葉言葉をはぎ取って接したら、素のそのまんまで接したら、自分には本当はどのようなものとして現出するのだろうかと、己で己を以って吟味するという手間を取ってこなかったからだ。店頭看板とリンク文字列と書店本棚と紀要掲載論題と耳聞き又聞きに判断してもらってきたからだ。他人の言うこと決めることに従ってきたから、お前がお前でなく他人だったから、お前は苦し紛れのトートロジー以外に何も言えないのである。判定してのけるという自分が無いバカ。

したがってこうなる:バイアスに歪められずに判断するには、エラそうになってしまうしかないのである。自分こそが裁定者で議決者で最終判定者にして最初判定者なりとしてしまうしかないのである。自分だけが寄る辺という実はバイアスでも何でもない準拠武器を以ってしないと「みんな」バイアスは打倒できない。そしてそうできている者ではないかないらしい如何なる人間の評言も一切聞くな。それは評価ではなく言葉ではなく言語ではない。そこには判断もなく受容も無い。制度と慣習しかない。

そういえば、これと関連して、日本で、哲学文学に関しては確かにだが、誰々研究してる者ばかりである。特定の「人」物に寄りかかってしまうのである。まず「人」ありき人人人の人こそすべてなりという原始呪術の妄信仰。なお自分の思い出す限りでは何々研究してる者のほうが面白いいものだが少数派ゆえだろうか。

で、このことに関して留意しておく論が有る。優れているのは個々のパフォーマンス個々の現象であってそれを成す個人ではないという論だ。人はどうしても「人」という単位を絶対視してしまって個「人」を神格化してしまってこれに夢中になってしまいこればかりに注意してしまうものだが、いかがなものだろうか。実際に感銘を受けたのは特定のパフォーマンスであり、それらは究極的にはその時その場かぎりの現象なのであって、それを成したその人というのはその現象を頻度的有意に発生させやすい人体であるに過ぎないものである。その人は戦績の〇「勝」が多いのであってしかし〇敗もまた有る。「天才」にも多くの駄作がある。「優れ」たモノが核として有る個人が居てこれが「優れ」た事を成すという錯覚からしたらこの個体がどうしても絶対であり原因であり一者にして神になってしまうが、実際はこの個体が関与している有限個数のパフォーマンスが存在しているしていただけのことだ。そんな核などは無く、個「人」など何の意味もない。毎日細胞が入れ替わっている「人」体に絶対の不変など無い。ということを分かっていず考えたこともないボンクラは、「優れ」た業績パフォーマンス勝利作品を他のヒト個体よりもやや多めに産出する個体を「優れ」た「人」と見て思考停止する。勝った回数がやや多い人=「強い」ハイ終わりということ。もちろんこれはどこまで行っても統計的傾向に関することにすぎず、「勝つ」「人」が存在するという結論は永久に出て来ない。今言っていることは、陸奥九十九が言う

「勝った方が強い・・・・」「強い方が勝つ・・・・」違う意味として使う人がいるけど・・・・オレは同じだと思ってる

川原正敏修羅の門』第16巻、講談社(1992)、119頁)

本人の意図とは真逆(九十九は勝者絶対個人が存在するという話をしている)の意味に解すると、分かる。素人がコート端のゴールに投げて偶然入るかも知れない。NBAならこれを偶然でなくやるだろう。猩猩ソネットを偶然タイプするかもしれないなら偶然でなくしかも何個も書くのが文豪ということになる。それでもすべては有限回数現象の統計傾向に過ぎない。

もちろんこの論じ方を本ブログも採っている。今のところ修正も撤回も要を見ない。ただ、そうじゃなくて、その文豪ソネットも本当に「優れ」てるのかどうか、そんなんゆってる奴がおるだけ湧いてるだけ信者がうるさいだけじゃないのか、今までの人類史ならそれがエエものになってしまうという歴史的偶然ではないのか等々ということを言っている。そんなものの良し悪しはアイマイなのである。いや上述「勝ち」だってたいがい曖昧だ。何ならゴールも曖昧かも知れない。ドストエフスキーも曖昧でホロヴィッツも曖昧だ。

曖昧

曖昧

乃木坂46

  • 発売日: 2019/09/04
  • メディア: MP3 ダウンロード

(ちなみにドストエフスキーというのは、当時のロシア人の話をしているだけの北半球田舎者であって、こいつの文章と関心はロシア人がどないでどうするかということがすべてのすべてであって、小説ではなくて一部マニア向け民族誌である。そして、そこから普遍的な契機を抽出して来れるのなら、じゃあコイツの他のどんな無名の埋没マイナー地方色小説家からも同じように抽出して来れるはずだ。そこでコイツだけが取り立てて選ばれ続けるのは、恣意と偶然に過ぎない。繰り返すが、内在する本質的価値など、無い。最初にこいつを取り上げたやつがいて、前倣えしたやつがおって、言説が累積していった、それだけのこと。騙されんな、特にこのゴテゴテしい名前に。)

つまりそのスグれてるらしい偉大らしい現象(の判断)そのものを問題にしている。それの解釈も、ほんまに言われてるようなもので合ってるのか、疑えやコラということだ。そんなものは個々の判断個々の捉え方に過ぎない。永久を通じて絶対フヘンにすぐれているモノなどコトなど、無い。そう言ってる奴そう信じたい信者が居るだけだ。