地上最強のブログ

しばいてくぞ

誰がエラいか問題

 

最後通牒(告)ゲーム」の分配側になったらやることは、1割取って9割与える、これに相手がどんな反応をしよったかを後で(実験者から)聞く、これに限る。

物事は面白ければ何でもいい。オモロいかどうかが最優先。利得や保身など二の次だ。

 

この記事でも述べていることだが、定評あり世評高く名声包まれる人をその定評や世評や名声にもとづいて判断している問題。

ということを戯画化した例のあれを見てみよう:

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秋本治こちら葛飾区亀有公園前派出所』第54巻、集英社(1988)、73~80頁)

とはいえ世の偉人歴史の偉人の大方がこのじいさんだったらどうか。こういう連中のことだ

と言ったのに対して、いえいえ、偉人というのは単なる世評や名声みんなに呼ばれるその名前どこにも印刷されるそのネームだけでもってして定評に値しているわけではゆめゆめないですよ、と確言できるのか。

このじいさんの本物なら名前だけでない雀士の腕があるのだろう。うむ、誰でも思い付く(思い付くこととは誤りでしかないが)ように、ゲームなら遊戯なら競走なら球技ならショーならその人物の中身実質実力も分かりやすいものだ、それゆえ詐称錯覚……というか信者たちの信心信仰がヨイショする虚史の余地もそないには無いだろう。つまり勝った負けたの白黒決まる世界なりポイントなんぼ取ったかと腕が定量視できる世界なら。

しかしただそういうのも絶対ではない。ラベリングの発生と弊害を描いたものとして本ならなんぼでもあるが名著中の名著の

でも挙げておこう。マルコム・グラッドウェル的な論述スタイルだが10倍面白い極上名著なのであるのに、それをぜんぜん伝えない商魂詐欺タイトルもここまで来るとヒドすぎる。「値札」の話など一切出ないし買い物の本ではまったくない。人間認知の根源的病症を述べた本だ。人の中身実力が客観的定量的に判断できるはずの分野でも、人に貼り付いたラベルに評価が左右されてしまうということを述べている箇所がある。それにしても、ラベル貼った者に《選ばれた》者、そういう者だけが後に成功していくわけだ。《選ばれ》に漏れた者人事担当の「目」に止まらなかった者はどうなるのか。面接を論じた箇所なんかもあって余計考えさせられるが、この選び選ばれるシステムが存在する限り、採用雇用という社会関係が有る限り、どれだけ精確を期してもデータを積み上げていても、選びに漏れた者が出てしまう。埋もれてしまった才能、見紛われた本物、芽が吹かなかった強者、が必ず出てしまう。選ぶほうのボンクラと恣意とバイアス、一言で無能が、殺し続けることになる。いやそれだけではなくて、そんな採用者数人とかいう単位の問題ではなくて、メディアや公衆の評価が、有名な者をどんどんどんどんスゴい者として見せてしまい、そうでもない者を大したことないかのように見せてしまい、人類というアホがなーも考えずこの錯視を犯し続ける。パフォーマンスの世界でも、そういうことが起きる。その有名人は本当にそこまでのものなのか、他が居たのじゃないのか、他の者がもっと傑出していたのではないのか、その無名人は本当に大したことがないのか。この世界に有った可能性は本当にこれだけだったのか。(実際、優勝者よりも惜敗を呑んだ者のほうがずっと魅力的だし、万年予選も通過できない永年挑戦者のほうがずっと興味持てるし、下のほうの者ほど応援し熟知するに値する気になるし、誰も知らない〇〇を贔屓しているのが最高の気分だろうし、極く身近に居るリスペクト対象こそ見るべきものだと齢と共に判ってくるものである。ゆってること分からんでもないやろ?)

ということを考えさせてくれる本書でも、78頁なんか見ると、シェイクスピアなんかは無条件にエラいと見ているらしい(そう見ているからこそコイツに不平を述べているのである)。だがこいつこそ、名前だけの者であるかもしれず、少なくとも自分にはそうだ。自分には、シェイクスピアなど、居ても居なくてもどうでもいい奴で、大事なことの1文字も書いていないボンクラの凡人のそこらへんの落ち糞だ。上の漫画のじいさん同然だ。いや本物の雀鬼先生でもいい、どっちにしろ、3人とも、ゴミクソの価値も、自分には、無い。

しかしこの方が雀鬼先生なのですと言われたら、何をし出しでも、そのラベルに見合ったスンバラシイ行動だと解釈する。

次回の記事に続く

 

柊の通学路

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渡り廊下走り隊

  • 発売日: 2013/01/23
  • メディア: MP3 ダウンロード

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