地上最強のブログ

しばいてくぞ

ショーペンハウアーの言う「意志」を勘違いするなよ

 

前回の記事から

端ものであると言う。人間は一生目がばっちり覚めることがないのだという。外界という複雑極まりなく途轍もなく大変なものを相手に何とかかんとかやっているかのようにゴマカし続けるだけだと言う。何かの拍子に一瞬物事がぱっと理解できることがあるという瞬間も人生でほんの数回。こんなあわれな生物。学識や知など、すべて、やっているフリ・やれているフリなだけのしかし認知病者の必死のメモ書きにすぎない。それなのにこいつらが物事にまとまりをつけて健全に社会をやっていけるのはどうしたわけか?一体どんな装置が働いているのか?

夢の在処へ

夢の在処へ(野島樺乃)

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— Das Gedächtniß allein reicht dazu nicht aus; da es wesentliche Beschränkungen hat, von denen ich bald reden werde, und überdies höchst unvollkommen und treulos ist. Das logische Ich, oder gar die transscendentale synthetische Einheit der Apperception, — sind Ausdrücke und Erläuterungen, welche nicht leicht dienen werden, die Sache faßlich zu machen: vielmehr wird Manchem dabei einfallen:

      „Zwar euer Bart ist kraus, doch hebt ihr nicht die Riegel.

Kants Satz: „das Ich denke muß alle unsere Vorstellungen begleiten,“ ist unzureichend: denn das Ich ist eine unbekannte Größe, d. h. sich selber ein Geheimniß. — Das, was dem Bewußtseyn Einheit und Zusammenhang giebt, indem es, durchgehend durch dessen sämmtliche Vorstellungen, seine Unterlage, sein bleibender Träger ist, kann nicht selbst durch das Bewußtseyn bedingt, mithin, keine Vorstellung seyn: vielmehr muß es das Prius des Bewußtseyns und die Wurzel des Baumes seyn, davon jenes die Frucht ist. Dieses, sage ich, ist der Wille: er allein ist unwandelbar und schlechthin identisch, und hat, zu seinen Zwecken, das Bewußtseyn hervorgebracht. 

(Schopenhauer, Die Welt als Wille und Vorstellung Bd.2 (1844), S. 138)

 

(どう考えても記憶というものではない。後述するが記憶というのは致命的に限定されたものであり、実は最悪に役に立たないものである。じゃあ例えば他に、動作主や主語になるような一人称的ナニカ、いやいや環境や外界を超えたところに想定されるすべてを統覚するナニカということを言えばいいのだろうかというと、そんなこともあるまい。こういったものに説明してもらっても大して何も分からない。ゲーテが『ファオスト―悲劇第1部』冒頭の「夜」で言っているように。だから、例えばカントがいかなる意識内容も自分ニハ思ワレルところものであるのだと言っているのも、聞けない。そんな自分なんてものも何らかの何かブツであってつまり結局はようわからんものであってしまうではないか。意識を意識で定義してどうする。意識内容をふたたび内容的なもので捉えても仕方がない。これらの下でこれらを支えているナニカのモノは、当然これらとは別の物でしかありえない。そいつが意識をまとめて統一性を与えたってるのである。そいつのほうが上で先で強くて根源だ。そんなんが意識なんぞのごときものではありえない。それは根っこであって、果実たる意識とは別のものだ。つまり、シタイとか望むとかやったるとかいう方向や欲求を持ったものだ。仮に「意志」と言っておく。このシタイという指向乃至方向あって進んでいくモノというのはまさに常に一定恒常不変で、ばらばらにならず気が散らず無関係の雑多たちに足を取られない。これが有って、意識がそこから出てきたのである。自分のために、自分のやりたいことをするために、意識を工面したのである、シタイからそれに必要な意識状態が生じたのである。)

という文章を読んでヌカ喜びするアホにだけはならんようにしよう。こんだけ引っぱっておいて遂に出てきた回答の中の回答がザッツ「Wille」である。どうにも素朴にすぎる。ここまでに書いてきた文章を書けるほどの知性の人が、こんな中二病ヨロコばせの「意志」だとかを金科玉条にたてまつる訳がない;そんなことをするアホは読者だけだ。この人が書いたものを アホ丸出しで鵜呑みにする無量大数の読者だけだ。ショーペンハウアー自身はそんなことしない。するわけがない。だから、「意志」だ!!ああ「意志」だ!!!と恍惚となるのだけはやめておこう。明治大正のアホたちお得意の観念麻薬中毒になるのだけは慎もう。ここで「Wille」という一語に縮約してショーペンハウアーが言いたいこと・脳裏に描いているものが何なのかを冷静に考えよう。と言って今解答がどっかのセンターから送られてくるワケでもないのであって、考えて推量するしかない。たぶん、意志というかもっと裸の【】そのものだろう。意識の担い手は実体(„eine […] Größe“)化こそしたらあかんと述べた直後だ、実体あるものではありえない。漠然茫漠と何かに向かっているこの向かい、何かをしたいそのしたさ、自分だけが見えていて自分だけであっている自分そのものの自分でしかない=つまり中身ゼロの裸の空虚のそれでもチカラではあるようなナニカたるナニカだろう。これがまた1つの存在でなどあっていいはずがない。これが存在していてそこから意識(もまた実体として捉えているワケがないだろうが)が生まれてなどというアホみたいな図式など到底描いていなかろう。というよりすべてが茫漠漠然のシタイという方向なのだろう。その過程というか過流に意識とその歴史という泡がまた結びやがては消えるのだろう。そんな世界観乃至世界をこの人に見たほうがよっぽどか面白い

そんなことはともかくとっとと次の文を見ていこう。

Daher ist auch er es, welcher ihm Einheit giebt und alle Vorstellungen und Gedanken desselben zusammenhält, gleichsam als durchgehender Grundbaß sie begleitend. Ohne ihn hätte der Intellekt nicht mehr Einheit des Bewußtseyns, als ein Spiegel, in welchem sich successiv bald Dieses bald Jenes darstellt, oder doch höchstens nur so viel wie ein Konvexspiegel, dessen Strahlen in einen imaginären Punkt hinter seiner Oberfläche zusammenlaufen.

(Schopenhauer, Die Welt als Wille und Vorstellung Bd.2 (1844), S. 138)

 

(意識が存在するようになった大元なのだから、一定のまとまりを持って物思うことができるようになっているのも勿論意志に因るところである。何かを思い描いたり考えたりしたりしている間ずっと意志が底で流れている、ずっと何事かをシタイのである。シタイというこの根底のものがなかったらヒトの意識は何の一定性もなく鏡同然である。ただ漫然とあれやこれやが映るだけの空虚な物体。別に屈曲した鏡に喩えてもいいがだからどうというものでもない。この場合には映るものも遠近法的に仮想焦点に集まっていくことにはなる。)

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認知に関しては完全に意志優位論である。これが無いとヒトは何でもない。意識とは水面にすぎなくなる。意識を鏡に喩えるひ喩がたまにあるが、明鏡止水とは誉めれたもので

次回の記事に続く