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しばいてくぞ

ニーチェからすれば「人間」など存在しない (9)

 

前回の記事から

」「哲」的には評価できたものでない人なようだが、しかし自分からしたら、そんな哲学のようなクソしょうもないものと違ってこの人の認知心理学は明確に面白い。つまり、次の文章も哲学かと言えば実はそうでは全然なく、そんなんよりもずっと面白い。

Damit es überhaupt ein Subjekt geben könne, muß ein Beharrendes da sein und ebenfalls viele Gleichheit und Ähnlichkeit da sein. Das unbedingt Verschiedene im fortwährenden Wechsel wäre nicht festzuhalten, an nichts festhaltbar, es flösse ab wie der Regen vom Steine. Und ohne ein Beharrendes wäre gar kein Spiegel da, worauf sich ein Neben- und Nacheinander zeigen könnte: der Spiegel setzt schon etwas Beharrendes voraus. — Nun aber glaube ich: das Subjekt könnte entstehen, indem der Irrthum des Gleichen entsteht z.B. wenn ein Protoplasma von verschiedenen Kräften (Licht Elektricität Druck) immer nur Einen Reiz empfängt und nach dem Einen Reiz auf Gleichheit der Ursachen schließt: oder überhaupt nur Eines Reizes fähig ist und Alles Andere als Gleich empfindet — und so muß es wohl im Organischen der tiefsten Stufe zugehen. Zuerst entsteht der Glaube an das Beharren und die Gleichheit außer uns — und später erst fassen wir uns selber nach der ungeheuren Einübung am Außer-uns als ein Beharrendes und Sich-selber-Gleiches, als Unbedingtes auf. Der Glaube (das Urtheil) müßte also entstanden sein vor dem Selbst-Bewußtsein: in dem Prozeß der Assimilation des Organischen ist dieser Glaube schon da — d.h. dieser Irrthum! — Dies ist das Geheimniß: wie kam das Organische zum Urtheil des Gleichen und Ähnlichen und Beharrenden? Lust und Unlust sind erst Folgen dieses Urtheils und seiner Einverleibung, sie setzen schon die gewohnten Reize der Ernährung aus dem Gleichen und Ähnlichen voraus!

(Nietzsche, 1881,11[268])

 

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(何かをする動作や行為の主体、自分、人、おまえでも誰でも「誰」でも何でもいいが、そういうもの、こういうモノは、まず、何かが1つのもの(=同じ1つのもの)であるということが成立していないと、成立できない。そういうものが無ければ、万物万象一切合切がただただ異なり合うだけであり、同じというものが一つとしてなく、すべてが涙のように雨のようにただ変わっていき移ろっていくということしかなく、何かが何かデアルということが全くできない。そのようでは、何かを映すという事が成立せず(映るナニカが無いのだから)、自分を映すということが成立せず、自分を映す自分というものが成立せず、従って自分というものが成立しない。意識に映ることができるものは特定のナニカ、留まっている1つのものに限られる。それが意識の上に映って他との関係が映ってとして意識が意識たるのである。自分からすれば流転側が真実であり留まる自同物こそフィクションなのだが、とにかくこのフィクションに芋づる式に意識や〇〇主体や私というフィクションが発生する。その発生現場はいろんなんが想像できる。細胞レベルで考えてもいい。原形質が外部からの様々な情報、光・電気・押圧などを受容する中で、その中に、いつも同じと感じられる一定の受容があると、いつも同じ一つの情報が有ると錯覚し、一つの同じモノが存在していると錯覚してしまう、とか。或いは、そもそも当原形質がたった1情報しか認識できず他を全部1カタマリとしてしか認識できない、などと考えてもいい。単細胞生物レベルでは実際にこんな風になっていることだろう。まず、「一」「定」というものを錯覚してしまう。それがあって次に、「同」じということ・同じである存在が虚構されてしまう。順番を間違えるなよ。この後にならないと、次の段階もない。そこでは、外界または自分以外というものを習得してしまい、自分というものを、それに対するところの一定不変の変わらぬものと思い込んでしまう。自己意識だ。そうすると、このように「思」うということ、判断という意味での思い、これが発生した後になってようやく自己意識が発生した、ということになる。実に、細胞レベルでも思うのであり錯覚するのであり誤認識するのである。アナボリック過程が生じたとき、思い(=フィクション作り)というものも生じたのである。「同」「一」・相「似」・「一」「定」、げに、なんでこんなものが生命史に生じたのだろうか。これらこそ生命の根源であり、生体に根源的と思われている刺激や反応や快不快といったものは、そこまで原初的なのではなく、同一性錯覚の長い歴史があってその後に生じたものであるにすぎない。有機体がアナボリックに際して刺激反応快苦を示すが、そうするには、刺激の一定性が成立していないわけにはいかないではないか。)

字面を見れば「主観」「自己意識」「同一性」のテツガク議論だが、読み応えはそんなしょうもないものではないだろう。自同とは生物の歴史の中に生じた錯覚なのだと述べているのだが、それだけ言ってると何もおもろくもなく字面たどってるだけだが、今まで見たきた文章とつながっていて、そ

次回の記事に続く