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日記ブログ、始めました (14)

出航

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前回の記事から

けるのである。

こうやっておのれの感情を処理するのに必死になっている感情動物が、人間である。人間には特に興味ないのだが、残念ながら人間には人間しか付き合う相手が居ないので、人間とはこうこうであると言って行かざるをえないし考えてしまうという始末になる。

知的過程が放逐される場というと、日常の会話場面はもちろん、方法に習熟していくこと、技術に熟達していくこと、といった場もそうである。知性というのが情報を意識していることだとするなら、情報を意識こそしなくなって行くこと、せずとも外界情報に対して合目的的な所作行動が取れるようになって行くことが、習熟の道である。身体や暗黙というのは、意識に映る情報の縮減という意味では、むしろ知の後退である。デキルようになって行くというのは、意識することがデキナイようになって行くことと不可分一如の事柄である。そしておそらく後者は何かが無くなっていくことではない。無は無くはならないからだ。

意識というのはものすごく遅い。また、例えばリベットの実験で有名なように、運動に対してのスタートがそもそも遅れている。こんなモノに何か大事なことやらしても何も出来ん。おそらく作業がデキナイ人というのは想像され叱咤されているのと違って注意が足りていないのではなくて注意し過ぎているのではないのだろうか。運動が高度で複雑になるほど意識が無いまたはついて来ないほうが得策となる。「強」くなりしたたかになり行動に長け種保存的になる。

かく生存にはほぼ全く無意味であるのになぜ意識が誕生したのか、それは色々に言うのだが、1つには、今までの記事で書いてきたように全生物の中でおそらく最

キスまで100マイル

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も明瞭にを意識できる人間ならではのものだろう。おそらく意識が有るほど無を意識出来るのだろう。意識が無ければ無いほど世界は存在で豊満しているだけだろう。意識だけが無を意識できるのだろう。そして、裏の裏に裏返す形而上学の遣り口を踏襲して考えれば、こうやって無をこの上なく知っている・意識できる・それに対峙できる者ほどが何なのかをよくよく知れるのであろう。そしてこういったハナシのすべてがひたすら知性がかかずらうことである。したたかに生きたい奴、おかねもうけ^q^目当てだけで糞ブログやってる連中とはここで一線を画す。

 

集合的無意識に対して集団的無意識とは集団が意識をどうにも欠いているということであり、例えば総意誤認効果というのが有る。個人個体が自分ワールドの布教に勤める確証マシンとするなら、集団もそういうところがあって、世界もまたワレワレのようなものであろうと思ってしまう。

しかしながらそういうものは、公言的であればあるほど無害であろう。有害な自己奉仕マシンというのは慎ましいフリをしているクズどもである。そいつらは例えば「うち」と自称する。うちソウハナッテオリマセン、他ハ知リマセンガ。「よそ」のことは知りませんが「うち」はコウナンデス。誰にも文句はありません。うちはうちでうちでヤッテマス。なるほど、こうやって謙虚ぶって殻にこもることで、無邪気にも創意誤認している連中よりも比べ物ならんほど自分ワールドに驕り高ぶっているようである。《他》なぞは、しょせん「よそ」に過ぎない。雑草ほどの存在感もないカスと言いたいようだ。そこと/へと錯覚する必要もないぐらい自分しか見えていず他からの干渉をシャットアウトできているワケだ。

もちろん「謙虚」な個人も同様だ。謙虚という最も汚らわしい嘘をこいつらが振りかざしているのは、最も暴力的な者ほど最も自分の嘘を自覚していないという常例を表しているだけである。こいつらは《ひとはひと》《自分は自分》という完全封鎖によって完全閉鎖ワールドを設立してしまえているから、自分の他・自分の無・他の可能性・新たなものなど、考えるまでもなく考えることもない。そんなもの意識にのぼる日がこいつらには来ない。

頑迷なアホよりは、謙譲な狂信者にこそ注意せよ。