地上最強のブログ

しばいてくぞ

計算と言語 (3)

 

前回の記事から

のである事実はどうしたらいいのか?ほとんどの言語表出が、たとえ熟考の余裕のある文章ですら、自分内辞典と自分内文法と自分内言語習慣慣用という他人と共有しているデバイスによって半機械的ほぼ自動的まず無意識的に表出して来ているだけのものである。虚心に内省してみい。自分で言語を表出してるできてることなど有るか?習慣や慣用の呪縛域から脱出突破した上で物を言うことが容易か?

いやだから、それはその通りですよ。そうした所で論には響かんよ。というのは

へたっぴウィンク

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、ほとんどの言語表出が別に言語の表出にはなってなくて思考ではないからである。思考や知的操作や知的内容に類するもの、こんな狭小で稀少で短小で高邁で高嶺で銀嶺で知的で遅的で遅漏なもの、情報や知的内容や客観的ブツであるようなもの、が日常そんなぽんぽん出てくるこたない。大体が文書やテ久ストの世界に限られる。斯く、思考とは狭いものであり、現実界では生息域活動範囲がたかが知れている。こういうのを思考なり言語なりとしておけばいいのである。そういう路線である。

ということで、思考をしているかどうか分からん未決中の方たちにムリから思考をさせることはない(「未決中」が堀未央奈に見えたら煩悩である)。ここで紹介してる『数をかぞえるクマ サーフィンするヤギ』(9784140817292)やここで紹介してる『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』(9784314011495)、或いはこれらに引きかえ何ともモッサイくて見栄えのせん(しかも立ち遅れた)内容の『動物たちは何を考えている?』(技術評論社)でも何でもいいが、このテの本から、動物たちが「考えている」ことは、なるほどよく分かった。「考えている」としか言えない行動や豊かな内面というもの、よく分かった。お前も読んでよく分かろうな。しかしだ。それが、言語の複雑高等生産・体系的論理的操作に比すべきものであることも、残念ながら劣る次点的な何かであることも、別になくてもいいだろう。有り体に言って、動物たちのやっていることは動物たちのやっていることである。それ以上に何が言えるというのか。何が分かり得るというのか。そしてそれが人間から見て何なのか、人間という連中の属性特性x,y,…と特に比してこれらに参照してこれらから照らしてそれが何なのかという自己中心的な話、や定義モドキ、や自分お花畑ゴリ押し、こんなんはもういい加減やめてくさらせいてこますぞコラというものである。それが思考=言語であってもらわなあかんことなぞ全く無い。ここには元々何の希望も都合も意味合いも必然性も盆も暮れも師走もないのである。元々なかったのである。目を覚ませ。人間に判ることは人間の中身だけだ。動物の外身がなんぼわかっても中身が人間類似類型相似近似の何かである保証などどっこにも無い。し、無くてもべつにいいのである。

言ってることが分かるだろうか。動物に「思考」をさせたがるのは、あくまで人間が本来することであるはずの行動をなんとか動物にもさせたがるような「しつけ」根性やペットショー根性やそもそも「ペット」根性(ペット文化自体が悪で誤謬で公然虐待で人権剥だつである)にすぎないのである。そこで見ている動物「の卓越」・動物の「実は」・動物「の心」のごときは、飽くまで悪魔で一方的にヒト種側から見て仮定して想像して定義しているものである。分かりやすく言うと、【動物も「意識」しているし動物にも「思考」が有る+そしてそれは人間のものに対してもしかしたら…

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】などと言ったり論じたり希望持ったりするのは、【東洋にも哲学が有りそれは実は西洋のよりも】ウンヌンカンヌンいう逆オリエンタリズムとよく似た愚考愚言なのである。仏教やタオなどがキリスト教形而上学などよりも深いとか、東洋の文化は西洋の文化よりも奥深く宇苗や字宙の答えに迫っているとかいう言説は、よく見ると、植民地根性人こそが最も愛好し必要としこいつらにこそ最大の需要があるところの逆輸入オリエンタリズムなのであって、歪みに歪んだいびつな反対向き異国憧憬の「東洋」趣味にすぎないのであるが、動物の内面を見直そうという思潮も、ゆうたらこんなようなもんなのである。引っくり返したらええっちゅうもんちゃうねんボケ。論者たちは常にこうやって浅はかなのである。

それでもこういったことを飽く迄問題にし気にし続けるのが人間であるから動物や他者は不可知であるハイ終わり!!!で店じまいにできる日も永劫このかた来ないもので、何がしかは言うとかんといかんことになる。そうすると、最低限せいぜいこのぐらいのことというのを言っていいことにすることになる。つまり、動物たちの思考とも呼びたくもなるそれは、計算や認知的処理である。情報処理である。外界への応答、適応行動、環世界へのおのがじしの出力-入力サイクル、応答をアフォードして来る事物への関係、それに対する運動の制御や調整、等々といったものの内的過程である。行動のための知覚、むしろ知覚=行動の内部プロセスである。内部内であるのは、高踏で観照的で自己認識であるということでは別になくて、ただ単に内部内というだけのことである。これが非言語的なものであること火の目を見るより明らかであろう。言語の出番はなく、言語的-記号操作的-思考的である何か、そういった表象(の表象)にお越し願う必要など何も無い。

繰り返すが、こういった内部内のナニカが高度な運動制御「表象」だったりそういう図式だったり「自己」〇〇だったり「意識」ある何かだったりシンボルの知覚や操作だったりすると、これらはどれも人間のものが最高段階に決まっているのだから、結局人間に対して劣り続けることになってしまう。結局、そういう話になってしまう。結局、【人間との比に於いて】という固陋古習の図式から一歩も出ていない。しかもそれを単純に引っくり返して《カレラはもしかしたら人間を上回る》《或いは人間とは異なる》うんぬんかんぬんと話を持って行ったところで、そんなのは、分かりもしないことに関して自分中心主義を頑張ってヒネクり回した無理しすぎの曲芸にすぎないのである。ナニガナンデモ何をどうしても人間以外生物に人間にだけ自明な自分たちだけの内面を見ようとする議論のどのどれもすべて、《そうはいっても結局我々がいちばn…》という確証の奴隷たることを止めることが出来ていないのである。だから、動物に「意識」や「思考」や「賢さ」や「権利」の適格を見ようとするいかなる議論にも、意義がない。そんなくだらない話とカンケーなく動物は賢いのであり尊ぶ相手なのである。対動物関係とは定言的に行くしかない事柄なのである。

この記事でアフィ貼った『数学の認知科学』(9784621065044)などからすると数学の概念も身体出身で身体からのメタフ

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ァーであり、レイコフからすると言語も思想も何もかも身体的-原初的体験からの借り物メタファー流用物である。それが、ここまでに書いてきた話とどのように関わりどのように相違するのかの検討などしない。レイコフが立派なのは十二分に判っていて議論の余地のないことでそしてそれだけで十分である。それはそれでそうなのであって、それと無理に折り合いつける気などない。世の99…いや100%の論者が自分の意識している議論や自分がそれを基礎にしている理論と必死で折り合い付けようとして紙幅を割き読者を退屈させるが、そんなクソ愚行を犯すようなことはしない。人間には言語-思考があってそれが他の動物にも有ってもらう義務は無い。それは内的というだけのことであってだから高等高級なものなのではない。それの出自が身体であるかどうかなど、どーでもええ。はっきり言って、ファッションとしての身体つまり肉体だかフィジークだかいうのは面白いものだが、現存在や経

次回の記事に続く