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しばいてくぞ

森鴎外の『即興詩人』翻訳は本当に立派なものなのか (3)

 

前回の記事から

愚直に冒頭から見ているのを続けて、続く段落を見てみよう。

Seh' ich nach meiner zartesten Jugend zurück, welch Gewimmel von Erinnerungen begegnet dann meinem Blick; kaum weiß ich dann, wo ich anfangen soll; betrachte ich das ganze Drama meines Lebens, weiß ich noch weniger, was ich darstellen, was ich als unwesentlich übergehen soll, und welche Punkte hinreichend sind, das ganze Bild wiederzugeben. Was mir anziehend scheint, wird es vielleicht keinem Fremden sein! Wahr und natürlich will ich das große Abenteuer vortragen; allein die Eitelkeit wird doch mit ins Spiel kommen, die schlimme Eitelkeit! die Begierde, zu gefallen! Schon in meiner Kindeswelt keimte sie wie eine Pflanze hervor, und schoß nachher, wie das biblische Senfkorn, hoch gen Himmel hinauf, und ward ein mächtiger Baum, in dem meine Leidenschaften Nester baueten.

(Kruse, Jugendleben und Träume eines Italienischen Dichters, S. 1–2.)

非常に平易で読みにくさの無い文章だが、これをどういう日本語にしたのだろうか。まあ少なくともここまで平易なドイツ語を「格調」「高」い(←はあ?何じゃそりゃ?)日本語にするのはお門違いだということは確かだがな。

したがって、「穉かり」「ける程」「の事」「をおもへば」なり、「いづこより」「語り始めむかと」「心迷ひて」なり、果ては「爲むすべを知らず」(←意味わからん!こんな語句知らんねん!誰かカンペ!!)なりといった、文人文「豪」の「筆」が「格調高」く特別なものだと幻想持ってくれているアホたちはああこういう所にウレシガるんだろなあと思わせる語句たちのどれもが、原文の本来の味とはおよそ似つかわしくない、なんとも場違いなものである。(ただ、「Seh' ich […] zurück」を「首を囘して〔中略〕おもへば」と冗長に足し訳して講談調(なんだよ!!)的リズムを取っている点など悪くないし、「zartesten Jugend」を「穉かりける程」とはよくぞ言った。)

勿論、いかんわけではない。むしろそうするほうが面白い。原文がどんな調子だろうと何だろうと自分のやりたい調子の母語を書いたるんじゃいという気概のほうがいいに決まっている。ただ、鴎外の「典雅」で御立派で後世に影響も与えるらしい高名な訳の文章が原文の平易文と解離しているものであることを指摘している者は今までに存在してなかったよな。それは確かだよな。

だから、第1段落に比してもう口語にもなっているぐらい砕けている原文に対して、気風漂う「又我世の傳奇」から薫香ただよう「全畫圖をおもひ浮べしめむ」を通って殊更かぐわしい「殊更に數へ擧ぐべき」に至る文の調子のいちいちいちいちが、コンビニ前たむろのヒトモドキどものモドキ語を学術ハナモゲラ語に訳しているようなちぐはぐを感じさせるということを、はっきり言っておかなければならないことになるのである。●んぽ。

そしてもちろんこの間に逐語訳→並べ替えのうんこ製造機たちとは一線を画していなくもない多少のアクロバティックは行っており、「die Eitelkeit […], die schlimme Eitelkeit! die Begierde, zu gefallen」を「人の意を迎へて自ら喜ぶ性」につづめているあたりなど、よく見ると安易なつづめではあるが、まあ、やはり初学者は見習ったらええんじゃないかという所ではある。

「Schon in meiner Kindeswelt keimte sie」だと〈この性」ではなくて「早くもわが穉き時にこの性〉としかならない。当時では、文頭寄りほど「は」付きのThema語という知見もなかっただろうし文法書なんて無いのだ(ろう)から仕方はないのだが、大事なのはそういうことじゃなくて、こういう所を確認して、昔の日本人は今よりもずっと外語が出来ていただとか明治大正の人らはスゴかっただとかいった嘘話をとっとと嘘と気付いたほうがいいだろうということである。自分が英語の世界に進んでたなら漱石の英語力に対してこんなような批判検討をしていただろう。

よかったなこんなブログがあってくれてな!「eine Pflanze」が「畠の中なる雜草」は流石にやり過ぎだぞとかいう話もこのブログでしか読めないこと、お前の人生で初めて読むようなことだろ!

それにしても現代日本語と語義が違う。「どころではない」の使い方を老害どもが間違っていることも思い出すが、「やうやく」は「nachher」ではなく、いやそれ「どころではな」く、正反対にも近い;現代では「ようやく」は「今頃になってくさって」の意だからむしろ「erst jetzt」や「doch endlich」だ。

やはりクドい文章に訳しているものではあるが、「, in dem meine Leidenschaften Nester baueten」を「そが枝の間にわが七情は巣食ひたり」とするのは見事である。

このように所々技がキマって煌めくという所があるにはあるが、まあ今時代の平均的学習者に思い付かないような技芸でもない。いや所々にはドイツ語無知も露見している。そして、全体にひたすら自分がやりたい日本語をやろうとしているものであって、それやったら翻訳せんでも自分で創作したらいいのに・それとどう違うねんと思わせる文章であって、そんなもんにすぎないこれが原文《を超えた》ような文豪神様の有難くもたっときお筆先(そんなもん無いがな)だと無批判無検討にウレシガってきた今までの歴史は間違いなく間違いであった。どっちやねん。

こう考えたら、これまでに無批判無検討にただただスゴいとされてきた歴史人物たちの外語能力も本当はどんなもんなんだろうなということにはなる。ただ、ドイツ語に限って言うともうハナシは分かっていて、つまり、現代の学習者と専門家の大多数が、こんな程度の鴎外の水準の足元にも靴裏にも及ばないカス揃いである。それで専門家ヅラは出来るし地位を得ることもできるんよ。大学とか研究室とかいうオワコンに鎮座ましましてきた/ましましている増し増しアホなヒトニザルどもに騙されないようにしたいものだ。

じゃあ、冒頭にへばりついてんのもバカらしいし、ランダムに下のほうにとんでみるわな。「曠野」の章冒頭、「羅馬城のめぐりなる大曠野は、今我すみかとなりぬ。」(Ctrl+F 押せ)を見る。「V. Die Campagne」な。

次回の記事に続く