地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェからすれば「人間」など存在しない (1)

 

この記事までに何10記事で見てきたように、現在これが

ニーチェ」「思想」だと思われているものは完全に誤りであり、本当にこの人が重要視していたものとは何の関係もない。お前たちの日本人「ニーチェ」は、19世紀の欧州に居たあの人とは一切まったく何の関係もない。

だから言っておくがこの人に関するいかなる日本語の本を読んでも、この人の実像とこの人が考えていたことは全然まったく分からない。それは、一部には、紹介者研究者論者たちがドイツ語を読めない(←ほんまやで)からでもであるし、また、そもそもとして人間が自分が見たいものしか見ないバカ生物だからでもある。アホは信念を信じ続ける。

このことは繰り返し強調して強調してしてもし足りない。してしてうるせえよ。

この人に関しては、例の悪質な誤情報もとい名誉棄損の中傷がいまだに出回っているものだが、そこからしても、人類がこの人に関していかに無知か、と言うかこの人の書いたものやこの人に関する記録をいかにふっつーに虚心坦懐に読んでいないか読もうとしないか、いかに、厳然と現前している情報を受け容れようとしないかが判るばかりである。

そういうことを質して糾して正して行くのもこのブログの使命(いやちゃうよ、アイドル鑑賞ブログやで)である。

上掲記事でも見て来ているようにこの人は現代21世紀科学の感覚の持ち主である。ふつうニーチェと言えば《大体〇〇というようなことを言っていた人》と思い込まれていて、『超訳』のような悪質な歪曲本が出ては誤解が定着してきてしまったものだが、この人は、お前らの思ってるようなしょうもないことを述べていたのではさらさらない。

今さらさら【Type-B】

今さらさら【Type-B】

(それは元アイドルや)

以下、1881年春~秋の断片群を見て行く。例えばこんな断片:

Wir hören wenig und unsicher, wenn wir eine Sprache nicht verstehen, die um uns gesprochen wird. Ebenso bei einer Musik, die uns fremd ist, wie die chinesische. Das Guthören ist also wohl ein fortwährendes Errathen und Ausfüllen der wenig wirklich wahrgenommenen Empfindungen. Verstehen ist ein erstaunlich schnelles entgegenkommendes Phantasiren und Schließen: aus zwei Worten errathen wir den Satz (beim Lesen): aus einem Vokal und 2 Consonanten ein Wort beim Hören, ja viele Worte hören wir nicht, denken sie aber als gehört. — Was wirklich geschehen ist, ist nach unserem Augenschein schwer zu sagen; — denn wir haben fortwährend dabei gedichtet und geschlossen. Ich habe öfter beim Sprechen mit Personen ihren Gesichtsausdruck so deutlich vor mir, wie ihn meine Augen nicht wahrnehmen können: es ist eine Fiktion zu ihren Worten, die Auslegung in Gebärden des Gesichts.

Ich vermuthe, daß wir nur sehen, was wir kennen; unser Auge ist in der Handhabung zahlloser Formen fortwährend in Übung: — der größte Theil des Bildes ist nicht Sinneneindruck, sondern Phantasie-Erzeugniß. Es werden nur kleine Anlässe und Motive aus den Sinnen genommen und dies wird dann ausgedichtet. Die Phantasie ist an Stelle des „Unbewußten“ zu setzen: es sind nicht unbewußte Schlüsse als vielmehr hingeworfene Möglichkeiten, welche die Phantasie giebt (wenn z.B. Sousreliefs in Reliefs für den Betrachter umschlagen).

Unsere „Außenwelt“ ist ein Phantasie-Produkt, wobei frühere Phantasien als gewohnte eingeübte Thätigkeiten wieder zum Bau verwendet werden. Die Farben, die Töne sind Phantasien, sie entsprechen gar nicht exakt dem mechanischen wirklichen Vorgang, sondern unserem individuellen Zustande. — —

(Nietzsche, 1881,11[13])

 

ウッホウッホホ

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(例えば外語などを聞いているとひたすら無意味な音声が聞こえて来るだけだが、言語に限らず、普段聴かんジャンルの楽曲なんかもそうだ。聴覚がなんぼ情報としての音声をぜんぶ捉えてくれてても、そこに意味を聞き取れるかどうかは別の話だ。と言うか情報としての音声なんて量が多すぎてほとんど意識には入って来ない。理解するのは聴覚情報のごく一部である。そしてその一部から全体の意味を勝手に推し量る。聞(聴)くというのは聞(聴)くということではなくて推量である。いや推量どころか創作と言ってもいい。ふつうさ、何語も何語も有る1文のうちよ、しょうみ2語ぐらいしか「読」んではないだろ?同じく、人が発した音声の内「聞」いたと言えるものは2~3音素でしかない。それで語全体を「聞」くのである。いや文全体すら「聞」くのである。ってか聞いたことにするのである。むしろそれが「聞」くことなのである、ほぼ全部を聞(聴)きはしないということが。そんな時に起きている情報処理過程なんてのは、お前ごとき人類ごときがアタマ絞っても解かるものでない。気が付いたら情報処理が終わっていて創作理解が出来上がっているのである。視覚体験も同様。はっきり言って、会話相手の顔を現にそのもの「見」ている者など居ない。喋っとる内容から《いまこんな表情》と勝手に創作して勝手にそんな表情を「見」てしまっているのである。つまりやな、ヒトには、知っているものだけしか見えないのである。見るというのは、視覚が捉えた無数の情報を何らかの知ってる形に加工することである。そんなもん「見」てなどはいない。創ってるのであり、創ろうとしているのである、絶えず。「実際」「に」「何が」「見」えていたかなんて話など無い。何を創ったか・何を見たことにしたか・何をそこに知っていたか、である。これが無意識過程だ!!そこでは、外界がどんな風になってるのかいなと素直にまさぐっているのではなくて、こんな風になっとんねんと素直に決め付けているのである。それはもう外「界」とも言えない、造ったものなのだから。知ってる世界から知ってる世界を造っただけ、そんな「世界」とも言わん。知覚内容が外界を写すことなど無いし、外界からの情報処理に逐一照応することも無い。自分のその時々の状態で千差万別。これこれをそう見て聞いていると言うよりは、そう見えてしまって聞こえてしまっているということである。)

これがニーチェの文章だと知っていたか?想像だにしてたか?名前隠して出されたら誰の書いたものか分かったか?

しかし、こんなことを書いていた人なのである。これがこの人の関心なのである。こんな面白い話をしている人なのである。意味不明な啖呵を切って見得を張っていた(ことにされている)意味不明な世界苦悩家にして思想冒険家ではないのである。そんなクソくだらんもんではない。《ニーチェと科学》だの「生理学」だの知ったツラでホザきながらこの人のナマの思想ナマの著述をな

次回の記事に続く

 

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