地上最強のブログ

しばいてくぞ

余の訪園録 (7)

 

前回の記事から

ツーの人が、その実別にフツーでも何でもなくて、24時間他人に勝ちたくてたまらんのである。自我を押し通したい欲望でギラギラしているのである。これがお前らであり人間であり我々なのである。ちょっとシチュエーションを用意してやれば、ちょっと綻びを突いてやれば、ちょっとカマにかけてやれば、どいつもこいつも自分中心至上最優先の怪物であることを一発で露呈する。そして《そうですよそれが何か?》と開き直った瞬間おまえはアホである。お前はこんなエゴの醜物化物でありながら、それでいながら、普段24時間、他人に対しては、自分への絶対の公正と行き届いた配慮を要求しているのであり、そのために口角泡を飛ばしBBSに書き込みまくっているのである。かく、お前らは、勝ちたくて勝ちたく仕方なく、自分の力を確信したくて仕方がない。これを、力への意志という。そう、それは、どかせる必要がない者を通路からどかせたくてたまらなくなる日常の場面、後ろから追い抜かれたくない日常場面、前に並ばれたくない日常場面、つらつら考えたら張っても意味がない意地を張り倒している日常の何気ない行動場面にこそ現象しているものなのである。大層な形而上学ではまったくない。が、バカにはニーチェが一生理解できない。あまりに日常的なことを述べているから。

確かに、そんなに人間が人間にオオカミ(と言うバカ・言ったバカはオオカミの何も知っとらんのだが)でエゴと利己のモンスターにして自我の拡張マシンだと断定するのには抵抗があるだろうしそんなん間違いかも知れない。自分とて

の130頁~ぐらい読んでいて、ヒトの社会性社会行動がどのようなものであるかを一定程度にはわきまえている。しかしそんな話はせず暗黒部分をひたすら愚痴りたくなる。人間がイイモノよりもワルイモノにばっか関心を寄せてしまうものだからだ。

 

ところで、上に見たように人が言葉を発するのはその言葉の内容に主な関心があってその内容を伝えることに最大の関心があるからなのではなくてただ言葉発し行動を通じて相手とケンカしているだけなのであるという話だが、これはもう人が話したり書いたりする場面のすべからくに於いて言えることで、理論や言論に於いても、そこで立てる命題たちが論客や同世代人等を打ち負かしたい一心でこねくり出しているだけのものであったり、それらの整合性の探求も真実の希求なのではなくて「説得性」付与によってヨリ論敵たちを「説得的に」ノックアウト出来るようにしているだけのものであったり、或いは自分が体系の無矛盾性整合性に納得したいという自分納得ひとり芝居のツジツマ合わせをしているだけにすぎなかったりする。そう考えると人類が産出してきたほとんどの体系たちが、勝つために言葉をどうにかするための言葉、言い訳のための言い訳、理屈のための理屈、ただただ言っているだけのナニかという色合いを帯びてきて、どうにも虚しいものに見えてくるだろうが、まあそうでもないにしても、次のことは確実にむなしい:人類がやる言い訳の中で最たるものは、自分が死ぬことに関する言い訳である。死に関して人類がしゃべり散らかし打ち立て尽くし思い描き倒しまくってきた空想・情景・絵巻・神話・楽曲・理論・「あの世」・死「後」・「宗教」(とはそういうものではないが)・浄土・極楽・救済……膨大きわまりない文学作品から哲学考察について今更ここで何を言う必要もない。言いたいのは1つ、これらすべてに欠けているのが死そのものの事であり、これらが死そのものを考えるのから逃げるための壮大な言い訳体系のガランドウであるということである。そしてこれらに少しでも関心があり知識がある誰であっても、また無い誰であっても、つまり存在する・してきた全人類が、1人残らず、死から逃げている。なぜなら、死そのものを考えたことがあるからである。自分が永遠に消えるという事、この恐怖に比したら、最上極悪の怪談も、事物の永年回帰も、宇苗の高速膨張も、史上最大の虐刹事件も、5億回ボタンも、ノストラチンコも、テロのリズムも、すべて、風前の羊羹にすぎず、タラコの昆布にすぎず、あたためたビザにすぎない。

 

このようである動物が自分たち自身の持ち物であると思い込んでいる言語や言葉というものをいかに自分のものにしていずいかにこれをよく判っていないかという喜劇が見物であること、再三再百述べてもまだ足りず、どれだけ例示してもし足りない。

例えばインタビューというのがある。当事者本人「の口」「から」聞けばそれは相当なものなのだろうと、どこの誰もが信仰している。「本人」以上に本人の事を知っている者は居ない(そんなバカな話があるか)と本気で信じ込み、本人が本人の経験やそれに関する思想信条や感想を述べると、それはそいつのそれらを物語る上での至上真正の究極命題にして神聖不可侵な絶対証言なのであろうと信じてやまないアホが、現在でも(未来にも)無数に居る。

当たり前だが、自分で判っている自分のことなど自分と自分に起きることのごく一部に過ぎない。し、その、ごく限定された視野内に見ている「自分」に関して、様々な虚偽記憶を造り、次から次に作話をし、そしてそれらを真と思い込む。そいつが語るそいつの過去のことは、記録映像のように正確でないのはもちろん、どこまで造ったものなのかもわかったものでなく、全部造ったものだったとしても誰にも分からない。そんなんを取材して何になる。そんなんを読まされて何になる。

或いは、そいつが属している特定社会集団をそいつが代表していると言える保証、そいつがその集団についてそれなりにでも参考になる何かを喋るのであろう保証なども、別に無い。琉球語が一日本語方言だと言い張って譲らない沖縄人が、なんぼでもおる。自分の「民族」についてまったくの誤解を頭から信じてる層なりマイノリティなりマジョリティなり移民なり在日なり居留民なり、なんぼでもおる。そいつ以外そんな思いを持たんわんという特殊な思いをナントカ障害に対して持っている当障害の者だって、なんぼでもおる。こんな奴なんも代表しとらんわと言いたくなるろくでなしサンプルに当たっている取材が、いくらでもある。

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いや、もっと一般的に見ても状況は悪い。例えば「現地」の人や直接関係者がやれこんなことを言っただとか、或いはくだんの人々が一般人から《こんなことを言われた》だとか、高名なさる御方からこのような言葉をたまわっただとか、かの作品に次のような文章があるだとかをウレシそうに引用しよるものだが、こういうものだって、何らかの代表的サンプルを引っぱって来ているつもりでいながら実はそうもなっていないことがあろう。【これがその層の一般的な人やモノであってこの層に於いては一般的にそのように言うものなのである】という保証なども別にないままにウレシしがって引用記録したその台詞が、実は特殊な個人がたまさか無考えに発した極めて偏向したサンプルであることだってあろう。その裏を取る著者などまず居ない。そしてどうやって裏が取れるのだ?統計ですら真を語らんことあるのに統計も取っていない個別取材が一体何の一般性を担保できると言うのだ?お前らはすぐ一般化するが、それは一般的なのものなのか?果たしてそれは参考になるものなのか?

(すぐ一般化してしまうというヒトの性向は思っているよりも至る所で害悪の芽を吹いている。例えばわずか数人・ひどいとたった1人から自分を否定されるような言動をされると、自分はそういう烙印を押されるものなのであると一

次回の記事に続く