地上最強のブログ

しばいてくぞ

はやくじんるぃがぜつめつしますよぅに☆彡 ※ただし俺を除く

Trost für die welche zu Grunde gehen! ihre Leidenschaften als ein unglückliches Lotterieloos betrachten. Sehen, daß die meisten Würfe mißlingen müssen, daß das Zugrundegehen so nützlich ist als das Werden. Keine Reue. Selbstmord abkürzend.

(Nietzsche, 1881,12[164])

 

(この宇宙の9999999999999億%は死物なのであって、自分が死ぬことだって絶対的成り行きの一つにすぎない。ほぼありとあらゆる部分が捨てられるからこそ、極く一部の有が成る。捨象・失敗・消滅は、宇宙のふつう。死んでしまうことに悲哀など無い。あらゆる人生が 時間をかけた自殺みたいなもんだ。

ニーチェ

 

前回の記事から

  • 土産、記念品、それは、物でしかない。単なる食べ物。たんなる民芸品。単なるボッタクリ商品。そこに、買った土地の霊は染みつきません。「思い出」は宿りません(旅行とは人体の移動にすぎない)。オカルトをやめてください。それがご当地でしか入手できない云々というのは、生産上の単なる都合か、いやほとんどの場合は 営業戦略なだけです。そのソレをそこで買うことに特に意味はありません。そんな意味は存在しません。買ったそのそれが帰郷後に自宅で意味を持つこともありません。そんな意味は存在しません。それを贈っても、意味があるのは、経済活動か美味体験かぐらいなものだけ。ああうまかった、ああカネが巡った、それっだけ。そんなものを一生懸命買うわけだ、なるほど、「お守り」(超オカルト!!!)の愚かさと何の大差もないな。一生懸命土産物を買ったり求めたり贈ったりしているヒトは、一生懸命 きたねえ石や枝を霊視していたピテクスを、他者として陳列ケース越しに見るのではなくて、自己として己の中に見ることしか出来ないのである、本当は。
    ということで、土産物屋や神社等とブルセラショップとの違いを教えてくれ。説明してくれ。お前には、ゼッタイに説明できないがな。すべて、呪物崇拝。

    ※個人の感想です。

  • 土地というものには、別に何も無い。旅先というのは、そいつにとってそうなだけで、地球にとっては別に何でもない。移動が格別なのは、二足歩行の鈍獣にとってのことだ。鳥からしたら旅情など屁でもない。He~y。地表は地表にすぎない。時刻とは惑星の自転にすぎない。仮に、平家の落人が3億人魔女狩りに遭った土地に建てられて 300億万人が死んだ廃病院があったとして、風水とかなんとかがなんとかだったりしたとしても、そこを丑三つ時に訪れようが逢魔が時に解体しようが3文で売却しようが素股で顔射しようが、何も出ません。コワイ話はぜんっっっっぶ嘘。おわり。(ちなみに、太陽光照射量や植生分布や建造物配置やヒト群行動などにヒトが勝手に感じる感情を全面的にヨロコんでここでもだえ狂喜し恍惚する、アホのアホによるアホのための文学があって、表現主義とかロマン派とか言う。だから文学はイヤなんだよ。)


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Which is which? (STUDIO)

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さて、我々人類ほど認知機構に欠陥のある生物だと、「スーパーセンス」の克服は永劫に叶わない夢だろう。現実に見出されるもの・現出していて現前しているものにそれ以外のもの・それ以上のもの・目にも見えず手にも取れない本質を見たがる認知の虚妄、これは、理性批判が形而上学として斥けていたものにそっくりである。※個人の感想です。カントの文章では、洗練されつくした「スーパーセンス」による構築物が上品に解体されていたことになるわけだが、どう解体しようが、罵ろうが蔑もうが文面を汚そうがパンツを汚そうが、やることは一緒である。※個人の感想です。虚妄はぜんぶ無意味なのであるとシバいたるだけの話だ。※個人の感想です。

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『スーパーセンス』や本シリーズが取り上げる事例は主に物体であるが、ヒトがフェティシズムを示す対象は、(数字の例を挙げたが、他に、)語彙や名称にまで及ぶ。社員証入れホルダーぶら下げ闊歩を揶揄するのもいいが、連中は結局組織の中での位置そのものに、役職そのものに、役にウレシがっているのだから、みっともないホルダーを取り上げても呪物崇拝はおさまりはしない。ってか、揶揄してるつもりのアホどもにしても、同じ穴だ。就職でもしたら、その社会的位置や立場それ自体がウレシくなるのだろう。職や役が、それがなくても社からしてが、本質に満ちていて心が満ちるのだろう。カネの源泉にすぎないものであっても、ヒトは職業に必死に自分の生き甲斐を見出し、組織に属する自分を全身全霊で合理化する。生きてきた航路とこれから死ぬまでの仮構ストーリーに死に物狂いで説明を与える。そうして、死ぬ時にすら、意味にあがく。すべてが絶対無になる死後にすら「葬式」を挙げられたがり、戒などという純粋ナンセンスに本気で意味を見て、やれどこの土地で「誰」「の墓」に入るかなどを云々し手配し支払いする。死んだら原子になってバラバラになるだけなのに。※個人の感想です。※個人の感想です。※個人の感想です。

うむ、魂は残るのだろう。「業績」は残るのだろう。もはや動物にも笑えない冗談だが、このサルは永遠に信じる。そうしないと、ツラいにもほどがあるもんな。だって、別に死後じゃなくても生きている間であってもバラバラな原子にすぎないのだから。


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こういう話の時に出てくる話題、というか気分、というか最後のヨスガ的なものとして、祈りとか祈るとかいうのがある。世界は虚無、それでも祈ってる♡ どこまで根性腐ったら気がすむんじゃという人類最低の行為がこの祈りとかいうものだが、ポピュラーサイエンスのクソ本には人類の活動として祈りを挙げることが多い。なるほどアメ公が書く本だのと思わせる。祈りなんかお前ら教徒以外誰もせんわアホンダラぼけというものだが、かといって、願いはするし、呪いはするし、想いはするし、描きはする。祈りよりも根性がヘタレ腐っている行為もないが、どのみちおんなじようなことはする。神や何かがどうなろうと何もカンケーなくて、祈る相手がなくてもヒトザルは祈るのである。塵1つ動かせない純粋無意味が、このアホ種には、大きな意味なのである。

 

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私の読書歴⑧~『若きウェルアムテルの悩み』『呪いの葡萄』『ジャングル大帝(アフリカゾウ)』『リボンの武士』『見えるものが見えないもの』『人型の家』『ゴドーを食べながら』『ブリキュアの太鼓』『畜生門』『藪の中で』『怪獣紳士』~

 

前回の記事から

  • 色ンナ人ガイマスカラ云々などという内容の全く無い挨拶文句など、しゃべらんほうがマシだ。そうだ、本人にしかワカラない価値かn … というほどリッパなものでは到底ない単なる執着心でもって物を懸命に「大事」にしているという話、本当の本当を言えば、バカな奴だなと思って聞いていない者など居ないだろう。

    ※個人の感想です。

  • そう、他人のことなら、そう冷静に考えれもする(そんな冷たいことは言わないよなどと取り繕わんでいい)。が、自分のことなら、冷静に突き放しては考えれない。他人から見たらしょうもないものに、執着しているだろう。他人の意味不明固執には呆れれても、翻って自分となると、反省力が消える。社会集団単位の自分と他人においても、こういった構造だ。

    ※個人の感想です。

    過去記事でさんざん書いてきた(この記事なりこの記事なりこの記事なり)ように宗教やカルトを嗤う一般人こそ宗教じみてカルトじみた狂人の認知構造をしているのだが、こいつらの「まとも」と「異常」の区別もそんなもんだ。自分たちこそ、自分たちの好む異常者の描写に適合するぐらい適合した異常認知エラーに取り憑かれている。例えばだが、昔懐かしブルセラというのがあった。うむ、眉をひそめたくなる異常な趣味だ。なぜこんなものが成り立つのだろうか、理解に苦しむよな。

    ※個人の感想です。

    しかしそれも、本書を読めばたやすく理解できる。そこにあるのは、本書で言う《殺人鬼のカーディガン》と同根の感情である。方向が反対なだけ、しかし同根。つまり、ただの着衣に、ただたんなる、霊長類の何らかの個体が着用した(という設定の)というだけの物体に、時に忌むべき本質が宿ったり、時に愛しき本質が宿ったりするのである。ただの物体、ただの繊維の集合、ただの植物死体、ただの石油加工物にだ。ただのぬいぐるみにだ。ただの寝具にだ。ただの印刷紙にだ。ただの署名にだ。ただの居室にだ。ただの用具にだ。ただの通貨にだ。

    ※個人の感想です。

    そうだろうが、ただのクルマに、ただのクラブに、ただのアクセサリーに、ただの履物に、ただの刃物に、ただの液体に、ただの筆記具に、ただの帳面に、ただの排煙葉に、その容器に、ただの使うだけの道具に、いや使えもしないグッズにお守りにジンクスに、トロフィーに、賞状に、得体の知れないナニカ本質を見て感じて大事にしているのだろうが。
    なんと異常な趣味だろう!!!ギャー!!!!ヘ〇〇イ!!!
    そうして、ただ単に発生時にタンパク合成したり解剖学的産道を通ったりした時点における現場という地球面上のたんなる一地点を、故郷だのふるさとだの言って、特別なものと感じて後生大事にするのである!!!「畳の上で」死にたいんだとさ!!!!なんと異常な趣味だろう!!!!
    通報しようぜ!!!!(※個人の感想です。 )

     

    【特典生写真付き】ここにいたこと(初回限定盤)(DVD付)

    ここにいたこと

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  • こうして、迷信に凝り固まった私たちは、やがては、誕生日などというただの数字にすら、特別な何かを見て、特別な信仰を抱くのでございます、よいしょ!!!アメ公だけじゃありません。ただの雨風に「カトリーナ」wwwなどと名前を付けれる、擬人化とアニミズム絶頂期に生きている太平洋の向こう側の国民だけではなく、列島民が、いやいや全大陸の全人類が、ゆうたらカトリーナ病なのである。

    ※個人の感想です。

    そうなのである、Wednesdayだの週に名前を付けれるような哀れなアニミズム人に対して、週なんぞは合理的にも数字で呼び倒し(中国語)、台風など数字を当てがっとけば十分という冷静な国民(日本語)だからといって、ウェッドゥネスデイィ国民に合理的心性に於いて勝ちを納めているわけではない。何月何日に何があったかと、ただの数字ごときにいちいち意味を込めれるような真性キ〇ガイだって、いやこやつらこそ、立派な信心を示している。
    だから、つまり、実に全人類が、焚火の回りで踊り狂う原始人なのである。どこかの島にそういう人たちが居るのでも、文明社会以前にそういう人たちが居たのでもなく、我々服着て服脱いでる文明人こそが、立派なゲンシ人なのである。
    お前は、ヤバン人です。私も、あいつも、みんな。そのアニミズムは、物に対するどころではない。数字だ!!!これ以上ない抽象的なもの、それ自体に「意味」は存在しないものの最々々々たるもの、こんなものにまで1個1個丹念に本質を込めれるのである。「大安吉日」wwww「記念日」www「不惑」wwww「厄年」wwwwwwww

    …… 動物にも嗤われる認知エラーであろう。

    ※個人の感想です。

  • ええ加減、笑ってるおのれを鏡で見よう。そうだな、たわいもなくボールを咥えている犬は稚児のごときだのう。そんなもんが大事なんだな~。取り上げたり別物に交換したりしたら 機嫌悪くするもんな。まあまあそこには、ワンコなりの本質が宿ってるわけだし(笑)。
    ……… あのな、おみやげ」などというものを買うお前だって同じだろうが!!!!!

次回の記事に続く

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↑ お祓い(お清め)、または魔除け

 

私の読書歴⑦~『耳は済ました』『指を飛ばせば』『罪と羆』『モルグ街の達人』『アンタの日記』『バットマン対レインマン』『バットマン対ピーターマン』『地雷を呼んだらサヨウナラ』『ナチュラル・骨・キラーズ』、スピノザウルス著『エ〇チか』~

夕陽のいじわる

夕陽のいじわる

渡辺麻友

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前回の記事から

  • 「世界文学全集を買いました!」 ←アホなんか?きたねえもんの話すんな。
    やれ全集、やれ〇〇事典、やれ豪華本、やれ装丁がどない、やれ初版本、やれサイン入り、やれ「自筆原稿」、すべてなにもかも全部、ゴミの話でしかない。それらはそれらに書いてある情報に意味があるのであって、それらがそういった紙の束である必要がないのならそれらが生産される必要も意味もまったく無い。出版社は今後PDF出版社になってくれ。早よKindleに駆逐されろ。
    ま、こんなこと言われても理解できんだろう。そもそもが好きなような奴は定義ニヨリ旧時代でオツム止まっている奴なんだからな。「作家」(←小説家の間違い)の使ってた筆から排煙筒からその住居から調度品まで神聖視するような低知能サルなんだからな。それらは、アインシュタインの脳と同じ意味、つまり同じ無意味しか、無い。
    本を有り難がる者のぎっしり本棚壁面囲繞部屋を何個見てきたことかだが、こういうのってほんと 無言の自己紹介の手の込んだ自慢だよな。ただのコレクション披歴。テレビに映るのなら見たことあるだろ、某研究者の背景の本棚と居並ぶ本のこれみよがし。見てください、私ってこんなに博識なんです。私ってこんなに知識に囲まれてるんです。私のバックグラウンドはこのように保証されているんです。いかに私が立派な人士か分かるでしょう?そう本棚に語らせる、チンケでいじましい連中。本の山が心の拠り所、本の山を映して相手を威圧、それで安心する。そんな奴ら。
    言っとくが、このように本と結婚して本に囲繞されていないと学術や言論ができないワケでも何でもない。例えば、自分の全書棚がこれだ:
    f:id:kakaist:20210226085413j:plain
    が、所有している本はこれ以外に無く、これ以外に必要なく、これらもクソ邪魔でしかなく、さっさと捨ててしまいたいだけだ(断捨離のハナシはしてない。そんな趣味もない。もちろん、物に囲まれて安心するという病気でもない。どっちも、アホ)。
  • 収集ということだが、そういえば、どっかで聞く話、コレクションを死後配偶者に捨てられましたという話があるが、ふつうは笑い話だろう。喜劇として受け取られるだろう。いや実に、喜劇なのである、大事なものなどというのは。びっしり並んだ本などというものは。みんな、実はそう感じれるのである。そう、誰だって、実は、自分が大事にしているものが本当は無意味なもんではないのかとゾッと予感しているのであり、一度は考えたことがあるのである。ただ、信じているものを護持墨守する信仰心にかけては全生物中トップクラスの(恥ずかしい)能力を示すサルだ。無意味を熟考できる個体など居ない。疑問は握り潰すのみ。ストロングゼロ飲もうぜ!!
  • 仮に、意図的なコレクションではなくて、集めているという訳ではないがどうしても集まってしまった身の回り品というものが勿論あるが、こういった物も、思い切って手放すことが出来ないものだ。それが、もしかしたら後に必要になるかも知れないというのなら、まだいい。後に必要になる場面が算段ついているのなら、取っておくのももっともだ。捨ててしまって後悔ということが確かにあるから、それは防ぎたい。捨てて あーもったいないことした!とはなりたくない。しかし、モノ持ちというものの大方は、そのようなものではない。そのように考えがあって捨てられないというようなものでは到底ない。ただ単に、気持ちの上で 手放すのが忍びないから、捨てられないのだろう。ほとんどの場合、そういうただの感情で物品が溢れ返っているだろう。
    つまり、将来使う可能性という予算や資金を見据えた意味でのではなくてただの情緒的なものとしての 「もったいない」迷信。これは、事実や現実に即した(無)行動根拠ではない。必要がなく、しかも大抵の場合本当に使われず 死後や蒸発後に業者処分でもされる、そういうような物にしがみついているのである。いや、「ついてる」というような能動的なものではない。それは、ただただ捨てることが・見切ることが・忘れてしまうことができないというもの、ただの無能力・ただの無考え・ただのナントナク・ただの感情・ただの意味不明執着にすぎない。
    そう、広く知られた「埋没費用」の心理とも類縁の、ただただ愚かとしか判定されない、無根拠でヒトリヨガリで「身勝手」な現状維持だ。言葉ヅラだけカッコいいだけ、「現状維持」と書いて「アホ」と読んだほうが分かりやすい。おまえがソレを手放せないのは、気持ちの問題だけのこと。それが大事なのは、気持ちだけの問題。
    例えばホームレスなら、ゴミに見えるものを取っているようでも、何かしら生存につなげれる道具になりうるものだから取っているということのほうがありそうだ。生存がかかっている人には、一見ゴミはゴミではない。一方、使う予定が無く、あっても買い替える予算が有るのにゴミ同然の家具日用品を取っているのは、ただの愚かだ。
    本書には、どっかのクソ漫画に出てくるボロ毛布なり、幼時から手放せないきたねえ添寝用ぬいぐるみか何かが例に出てくるが、こういうのに関して、一見何の好悪もないか或いはあたたかい眼かで見ているかのような者がいたとしても、あからさまに侮蔑を示してはいないというだけで、内心の心底では呆れている。いや嘘つかんでいい。お前らのクソ建前クソ公式声明は聞いとらん。

次回の記事に続く