地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェ、1888年春 (3)

 

前回の記事から

のであるが、この快不快というのを本格的に論じた文章も1888年断片群には有るもので、次の断片がそうである:

涙売りの少女

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Der Wille zur Macht als Leben

Psychologie des Willens zur Macht.

Lust Unlust

Der Schmerz ist etwas Anderes als die Lust, — ich will sagen, er ist nicht deren Gegentheil. Wenn das Wesen der Lust zutreffend bezeichnet worden ist als ein Plus-Gefühl von Macht (somit als ein Differenz-Gefühl, das die Vergleichung voraussetzt), so ist damit das Wesen der Unlust noch nicht definirt. Die falschen Gegensätze, an die das Volk und folglich die Sprache glaubt, sind immer gefährliche Fußfesseln für den Gang der Wahrheit gewesen. Es giebt sogar Fälle, wo eine Art Lust bedingt ist durch eine gewisse rhythmische Abfolge kleiner Unlust-Reize: damit wird ein sehr schnelles Anwachsen des Machtgefühls, des Lustgefühls erreicht. Dies ist der Fall z.B. beim Kitzel, auch beim geschlechtlichen Kitzel im Akt des coitus: wir sehen dergestalt die Unlust als Ingredienz der Lust thätig. Es scheint, eine kleine Hemmung, die überwunden wird und der sofort wieder eine kleine Hemmung folgt, die wieder überwunden wird — dieses Spiel von Widerstand und Sieg regt jenes Gesammtgefühl von überschüssiger überflüssiger Macht am stärksten an, das das Wesen der Lust ausmacht. — Die Umkehrung, eine Vermehrung der Schmerzempfindung durch kleine eingeschobene Lustreize, fehlt: Lust und Schmerz sind eben nichts Umgekehrtes. — Der Schmerz ist ein intellektueller Vorgang, in dem entschieden ein Urtheil laut wurde, — das Urtheil „schädlich“, in dem sich lange Erfahrung aufsummirt hat. An sich giebt es keinen Schmerz. Es ist nicht die Verwundung, die weh thut; es ist die Erfahrung, von welchen schlimmen Folgen eine Verwundung für den Gesammt-Organismus sein kann, welche in Gestalt jener tiefen Erschütterung redet, die Unlust heißt (bei schädigenden Einflüssen, welche der älteren Menschheit unbekannt geblieben sind, z.B. von Seiten neu combinirter giftiger Chemikalien, fehlt auch die Aussage des Schmerzes, — und wir sind verloren…) Im Schmerz ist das eigentlich Spezifische immer die lange Erschütterung, das Nachzittern eines schreckenerregenden choc’s in dem cerebralen Heerde des Nervensystems: — man leidet eigentlich nicht an der Ursache des Schmerzes (irgend einer Verletzung zum Beispiel), sondern an der langen Gleichgewichtsstörung, welche in Folge jenes choc’s eintritt. Der Schmerz ist eine Krankheit der cerebralen Nervenheerde — die Lust ist durchaus keine Krankheit… — Daß der Schmerz die Ursache ist zu Gegenbewegungen, hat zwar den Augenschein und sogar das Philosophen-Vorurtheil für sich; aber in plötzlichen Fällen kommt, wenn man genau beobachtet, die Gegenbewegung ersichtlich früher als die Schmerzempfindung. Es stünde schlimm um mich, wenn ich bei einem Fehltritt zu warten hätte, bis das Faktum an die Glocke des Bewußtseins schlüge und ein Wink, was zu thun ist, zurücktelegraphirt würde… Vielmehr unterscheide ich so deutlich als möglich, daß erst die Gegenbewegung des Fußes, um den Fall zu verhüten, folgt und dann, in einer meßbaren Zeitdistanz, eine Art schmerzhafter Welle plötzlich im vorderen Kopfe fühlbar wird. Man reagirt also nicht auf den Schmerz. Der Schmerz wird nachher projicirt in die verwundete Stelle: — aber das Wesen dieses Lokal-Schmerzes bleibt trotzdem nicht der Ausdruck der Art der Lokal-Verwundung, es ist ein bloßes Ortszeichen, dessen Stärke und Tonart der Verwundung gemäß ist, welches die Nerven-Centren davon empfangen haben. Daß in Folge jenes choc’s die Muskelkraft des Organismus meßbar heruntergeht, giebt durchaus noch keinen Anhalt dafür, das Wesen des Schmerzes in einer Verminderung des Machtgefühls zu suchen… Man reagirt, nochmals gesagt, nicht auf den Schmerz: die Unlust ist keine „Ursache“ von Handlungen, der Schmerz selbst ist eine Reaktion, die Gegenbewegung ist eine andere und frühere Reaktion, — beide nehmen von verschiedenen Stellen ihren Ausgangspunkt. —

(Nietzsche, 1888,14[173])

 

(Wille zur Macht論だが今日は快不快論で、いま例えば不快のほうから考えてみると、痛みや苦痛というものがあるが、これらは快の反対なものなのではなくて快感覚と所属する場所が違うものである。快というのが何かと言うとこれは力が増えたり増したりするときに伴う感覚である。だから量の増減ということがある。じゃあ不快のほうは何かと言うと別に快の対立物なのではない。人類がそんな勘違いをしてしまっていて言語に勘違いが埋め込まれてしまってある((Un)Lust)だけのことだ。悪質な勘違いであるし、しかも快不快という非セットがセットになってしまう場面があって、例えば痒くてぼりぼり掻くときなどがそうだが、微小不快連続が快感につながってしまい快感覚特有の力増大感覚が湧いてしまうものであり、また1つの勘違い源泉となってしまう。性交時粘膜摩擦などもそうである。不快が快の材料になってしまうケース。起きてることは微小不快→抑制→微小不快→抑制という繰り返しであるが、こう繰り返すと、自分の力が対象に対して超過している勝ってるぞおれスッゲーな快感情をとてつもなく惹起してしまうことになる。ところでこの逆のケース、つまり微小快→抑制→微小快→抑制の繰り返しによる苦痛の増加というケースなどはどうかというと、いやそんなものは存在していない。痛くなければ気持ちよく・気持ちよくなければ痛いというワケではない。快と苦痛は対立してはいない。ではこの痛みや不快感が何なのかというと、明確に意識される判断でありアタマデ考エられるものである。つまりイカンとか許さんとか害を為すぞとかいう判断で、そういう考エタ判断にして小理屈さかしらの類であるがゆえに、長年の蓄積がその背景にあるものである。そう、アタマで考えたこと・言い出したこと・発案した判断なのであって、それ以前にある痛みそのものというのは実は存在していない。いいだろうか、怪我すること自体が痛いものなのではない。怪我してそれが痛いというのがどういう事なのかと言うと、怪我があとあとどれだけ困ることになって来るかを今までに経験して知っていてその知識から痛い痛いと思い考え判断し《感じる》のである。害の「知」識が痛みの「感」覚(だとして)を起こすのである。だから実際は有害なものであってもそれの知識がなければ(例えば人工化学物質)何と苦痛の感覚も無いことになりそうして知らない間に害されていくことになる。これが苦痛や痛みというものである。実体がない。それでも何とか実体らしいものを考えるとすると、例えば強いショックを受けてこれが脳内で特定神経細胞群を長期間刺激し続けるようなケース、せいぜいこれぐらいが痛みたる痛みであろう。傷やケガなど自体が痛いのではあくまでもないのであって、これを起因として障害が残ること、これが苦痛というものなのである。だから痛みとは脳の神経細胞群がかかる病状だと思ったらいい。そして快のほうはそういうものではない。なるほど実際痛覚が刺激になって反応が起きるのだから確かに痛みというのが何かをもたらす実体だと思えてしまう。しかし実際の実際はそうでもなくて、考えてるヒマがない刺激-反応の場面では、痛みを感じるよりも先に反応行動をしている。ケガするものに手または足を出してしまったその瞬間にちゃっと体が反応してくれないと大けがするではないか。体は、すっトロい意識が何をしようかな~と考えている間ぼさぼさ待ったりなどしない。こんなことは自分など明確に感じていることで、とっさの場合には、まず手足の反応運動が先にあって、そこから何秒と数えれるほどの時間がかかって〔!〕やっと痛みの神経波が前頭に届くのを感じるものである。よって、上述の「痛覚が刺激になって反応が起きる」というのが嘘だということになる。まず怪我がある、それはそうだ。しかし、ここに、時間上の後段階になってから、コレハ痛イモノというラベルを貼っているのである。この順をまちがえんな。そこが痛いという思いはそこが怪我しているという事実の写像ではない。その「痛い」というのはその怪我の程度に対応はしているところの記号にすぎず、大脳が怪我から受け取る連絡事項にすぎない。なるほど上述のような強い病的ショックを受けた場合にはもちろん生体の筋力が如実に低下するものだが、そうだからといって、(筋力の増加が快なのだからそれを単純に反対にして)苦痛とは筋力低下にありなどと考えることなど到底できない。何度も言うが、「痛覚が刺激になって反応が起きる」のではない。苦痛とかの不快サイドのもの、こいつらには、行為行動の起因動作因になることなど、出来ない。反応というのが痛覚に先立っていると言ったが、もっと言うと、痛みというのも一種の反応なのである(反応への原因なのでは何らない)。出所が違うだけで、どれも反応なのである。)

ニーチェと言えばこの話題というべきLust/Unlust考だが、ほうぼうで述べていながらここでこそ最も明確に述べているのだろう(だろう。知らん)が、両者をまったくの別物と述べている。快たるものと不快や痛みたるものとがどちらも実体としてあってそれらが同一土俵上でがっぷり対立しているかのようなイメージが完全に誤りだと述べている。生体には力の増減というのがあってこれが増の振幅側に振れたらそれに或る感覚が随伴する:この感覚が、快という名前のついたモノである。一方(言葉尻だけは快に関係あるかのようになってしまっている)不快/苦痛サイドは、感覚ですらなくて、生体が損傷を被ったときにそれ意識が後付けする小理屈屁理屈の類である。不快とはダジャレ的一致以外にいかなる共通点も持たない全くの別個別物なのである。

いやはやこれが現代の生理学の前提になっていたとしたら、仮になっているとしたらじゃあ一般の常識になっていたとしたら、ど

次回の記事に続く

 

ニーチェ、1888年春 (2)

 

前回の記事から

恋は仮病中(Charming Trip)

恋は仮病中(Charming Trip)

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りも強くあろうと戦い合っているチカラ意志たちの各定量が世界を成すのだから、こういった邪気やドスを除いた純粋物の純粋やりとりを記述した学などは、コトのしょぼい一部をとらまえているに過ぎない。「物質」「原子」「圧力」「衝突」「重力」などと言うといかにも現実世界の実像をそれに即して克明に描写しているようだが、全然そんなことなくて、こんなものは、描写にせいぜい努めるためにイメージに頼って考案したモノにすぎない。生命や生動というのは一番みんなが知ってる言い方で言うとチカラを蓄えていって強くなっていくという事柄である。チカラの増減というのが人生なのである。そんな所で自己保存や基本的人権やなどあったものではない。嘘をやめい。生きている以上ドダイ勝つか負けるかこ〇すかこ〇されるかしかありえない。覚えとけ。ところでこうやって「生」ということを言っているが、「生」という以上個々の生の話をする以外には話しようがないのだが、そうではあっても全存在者を説明できるものではある。とにかく生きるというのは最大限のチカラを最大限に感じれるレベルになるまで戦ってくということである。力を着けていくということでしかありえない。そしてそもそも何事かを目指すということが力を目指すということでしかありえない。チカラを目指すこと、これがすべての根源であることは疑いようがない。力学なり物理学なりといったものは悪魔でこういった現実相を書き記した報告にすぎない。)

という断片がある。読んでの通りだ。もしこのような世界説明体系が生き延びていたら、広範に受容されて一定の公認を得ていたなら、現代の知と言論がどのようになっていただろうか。これがもし科学になっていたら、科学はどのようになっていただろうか。もしニーチェ科学が成立したら、世界はどのように見られるようになるだろうか。

Philosophie

Die Physiker glauben an eine „wahre Welt“ auf ihre Art: eine feste, für alle Wesen gleiche Atom-Systematisation in nothwendigen Bewegungen, — so daß für sie die „scheinbare Welt“ sich reduzirt auf die jedem Wesen nach seiner Art zugängliche Seite des allgemeinen und allgemein nothwendigen Seins (zugänglich und auch noch zurechtgemacht — „subjektiv“ gemacht) Aber damit verirren sie sich: das Atom, das sie ansetzen, ist erschlossen nach der Logik jenes Bewußtseins-Perspektivism, — ist somit auch selbst eine subjektive Fiktion. Dieses Weltbild, das sie entwerfen, ist durchaus nicht wesensverschieden von dem Subjektiv-Weltbild: es ist nur mit weitergedachten Sinnen construirt, aber durchaus mit unseren Sinnen… Und zuletzt haben sie in der Constellation etwas ausgelassen, ohne es zu wissen: eben den nothwendigen Perspektivismus, vermöge dessen jedes Kraftcentrum — und nicht nur der Mensch — von sich aus die ganze übrige Welt construirt d.h. an seiner Kraft mißt, betastet, gestaltet… Sie haben vergessen, diese Perspektiven-setzende Kraft in das „wahre Sein“ einzurechnen… In der Schulsprache geredet: das Subjekt-sein. Sie meinen, dies sei „entwickelt“, hinzugekommen —

Aber noch der Chemiker braucht es: es ist ja das Spezifisch-Sein, das bestimmt So-und-So-Agiren und -Reagiren, je nachdem

Der Perspektivismus ist nur eine complexe Form der Spezifität

Meine Vorstellung ist, daß jeder spezifische Körper darnach strebt, über den ganzen Raum Herr zu werden und seine Kraft auszudehnen (— sein Wille zur Macht:) und Alles das zurückzustoßen, was seiner Ausdehnung widerstrebt. Aber er stößt fortwährend auf gleiche Bestrebungen anderer Körper und endet, sich mit denen zu arrangiren („vereinigen“), welche ihm verwandt genug sind: — so conspiriren sie dann zusammen zur Macht. Und der Prozeß geht weiter…

(Nietzsche, 1888,14[186])

 

(物理学的世界というのはなんぼ確固と見えてもそれでも現実の1つの写しにすぎないものであって、それはつまり【すべては決まった法則の中で決まった運動をする原子群なり】という写し方なのだが、こんな考えからすると、日常知覚されているのが嘘の世界であって物理学世界を各生物が勝手各様に捉えた世界であるということになる。原子云々の1つきりの本物の世界を全生物が共有していてしかしどやつも自分なりの捉え方正当化可感化しかしていず出来ていないのであると。いやいやそう考えるのがおかしいのである。なるほど原子などと言うが、これは、ものに原子というものを見たい見える見えるしかないという見え構造見え事情から仕方なくヒネ繰り出されたものなのであって、それこそまさに物理学が断罪する各生物の勝手各様の見え方見方と同じ穴のムスコムジナなものなのである。やってることが一緒なのである。その見方が精度や精緻さこそそれ相当なものなのはそうだろうが、かと言ってヒトに可能な見方の範囲内を一歩も出ているものではない〔ということに関して『知の構築とその呪縛』読んどこう〕。そうして各生物各様の見方というのをは自分の体系から閉め出してしまっているのだが、いやこれこそ一等まっさき最優先に大事なものである。世界というのは、チカラたち=全生物たちがおのがじし手前勝手に自分ワールドを構成して他の奴らに対峙しつつ自分のチカラを刻々涵養していく(各自のチカラの多少が各自の見え方を決定する)その有様から成るものである。こんな有様こそ、まさしく、物理学がうっとこの商品と喧伝してる世界の実相貌に他ならない。つまり俗に言う「主観」というものたること、これが世界の実相貌に他ならない、学術がそれをいくらガンバって蔑んだとしてもな。それどころか(生)化学だって話は同じことである。例えば生体の行動や反応を研究するのはいいが、そこで見ているのは、原子ガー運動ガーといった仮構物同様の一般的抽象的無内容なのではなくて、あくまでその個体特有の一定特定の行動や反応である。いいだろうか、(生)化学なんかが言う特定個体に特有の個別的反応というもの、これをもうちょっと高次水準で言ったものが上述の各生物の見え構造見え事情というものである。いま確実に言えることは、おのおのの特異反応をする特異個体たち特異個人たち全員が、24日365時間の人生全秒全瞬間にわたって、自分に見える範囲を支配下に治めて王様になりたがっている奴らであるということであり(これを力への意志という)、自分様の行く手を1ミリでもはばむならその邪魔物邪魔者はすべてコ〇そうとしているということである。で他の個体もそうしているのだから衝突を起こすのだが、そういう時に似た者同士ならばいっしょになってしまうこともあって、自分ワールド拡張派兵が終わるっちゃ終わる時もある。そうなると合併であり合作でありカルテルであり共謀である。合従連衡するということだ。結局はかちたいのであり上にあがりたいのであり力が欲しいのである。だから結局、終わりは無い。)

見るように化学の知見もWille zur Machtの体系に取り込もうとしていた;またはそれの説明手段にしようとしていた。いずれにせよ(他の断片同様)すがすがしいまでのパワー思想であり闘争的世界観である。こういった考えが今日の思潮風潮とどれだけそぐわないかというのは自身が

予想外のストーリー

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„Wille zur Macht“

„Der Wille zur Macht“ wird in demokratischen Zeitaltern dermaaßen gehaßt, daß deren ganze Psychologie auf seine Verkleinerung und Verleumdung gerichtet scheint…

Der Typus des großen Ehrgeizigen: das soll Napoleon sein! Und Caesar! Und Alexander!… Als ob das nicht gerade die größten Verächter der Ehre wären!…

Und Helvétius entwickelt uns, daß man nach Macht strebt, um die Genüsse zu haben, welche dem Mächtigen zu Gebote stehen…: er versteht dieses Streben nach Macht als Willen zum Genuß, als Hedonismus…

Stuart Mill: — — —

(Nietzsche, 1888,14[97])

 

(自分がこのように述べている思想など現代の思潮の中では居場所がないもので迫害の憂き目に遭うだけである。大衆と公衆と市民様の時代なのだから、特定の個人が他の人間よりも特別優位であってはいけない時代なのであるが、しかしまあ歴史上の誰でも知ってるあの英傑このヒーローなど実際はそもそも大衆人気や時代風潮なんかを蹴り潰してくれるような人々なのだがな。そういえばエルヴェシウスなどを読めば思えてくることだが、力があるものだから特別優位に立てる特別個人というのがあってこいつだけが享楽できる人生というのがあって、誰だってそういうものに憧れて生きているのである。それはもう否定しようがないことである。だから力への意志というのは快楽追求である。エルヴェシウスによるとそういうことになる。一方S・ミルなど)

などと述べているものでもあるのだが、アホがすぐ飛びつきそうなこんな断片(アホは「歴史」が大好きだからな)じゃなくて上掲の断片たちのようなものを見て、闘争チカラ原理にあまねく分子現象宇宙現象を包摂しようとしていたところを押さえたいものである。

今見ているチカラ欲求論だが力の増減ということに関して必ず快不快ということを考察うする、というか非常に気にしているも

次回の記事に続く

 

ニーチェ、1888年春 (1)

 

この記事この記事で見たブッ飛んだ文章がある1888年の断片群だが、この時期が非常に多作豊作で、他にも、日本ニーチェ受容人口のアホたちの想像も絶し嘘ニーチェ像も絶する文章たちが牛牛牛めいている。例えば次のようなニーチェ宇宙論が有ったことをお前たちは知っているか知ろうとしたか考えたことぐらいあるか:

制服のバンビ

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Kritik des Begriffs „Ursache“

Psychologisch nachgerechnet: so ist der Begriff „Ursache“ unser Machtgefühl vom sogenannten Wollen — unser Begriff „Wirkung“ der Aberglaube, daß das Machtgefühl die Macht selbst ist, welche bewegt…

ein Zustand, der ein Geschehen begleitet, und schon eine Wirkung des Geschehens ist, wird projicirt als „zureichender Grund“ desselben

das Spannungsverhältniß unseres Machtgefühls: die Lust als Gefühl der Macht: des überwundenen Widerstandes — sind das Illusionen?

übersetzen wir den Begriff „Ursache“ wieder zurück in die uns einzig bekannte Sphäre, woraus wir ihn genommen haben: so ist uns keine Veränderung vorstellbar, bei der es nicht einen Willen zur Macht giebt. Wir wissen eine Veränderung nicht abzuleiten, wenn nicht ein Übergreifen von Macht über andere Macht statt hat.

Die Mechanik zeigt uns nur Folgen, und noch dazu im Bilde (Bewegung ist eine Bilderrede)

Die Gravitation selbst hat keine mechanische Ursache, da sie der Grund erst für mechanische Folgen ist

Der Wille zur Accumulation von Kraft als spezifisch für das Phänomen des Lebens, für Ernährung, Zeugung, Vererbung,

für Gesellschaft, Staat, Sitte, Autorität

sollten wir diesen Willen nicht als bewegende Ursache auch in der Chemie annehmen dürfen?

und in der kosmischen Ordnung?

nicht bloß Constanz der Energie: sondern Maximal-Ökonomie des Verbrauchs: so daß das Stärker-werden-wollen von jedem Kraftcentrum aus die einzige Realität ist, — nicht Selbstbewahrung, sondern Aneignung, Herr-werden-, Mehr-werden-, Stärker-werden-wollen.

Daß Wissenschaft möglich ist, das soll uns ein Causalitäts-Princip beweisen?

„aus gleichen Ursachen gleiche Wirkungen“:

„ein permanentes Gesetz der Dinge“

„eine invariable Ordnung“

weil etwas berechenbar ist, ist es deshalb schon nothwendig?

wenn etwas so und nicht anders geschieht, so ist darin kein „Princip“, kein „Gesetz“, keine „Ordnung“

Kraft-Quanta, deren Wesen darin besteht, auf alle anderen Kraft-Quanta Macht auszuüben

Beim Glauben an Ursache und Wirkung ist die Hauptsache immer vergessen: das Geschehen selbst.

man hat einen Thäter angesetzt, man hat das Gethane wieder hypothesirt

(Nietzsche, 1888,14[81])

 

(何かを引き起こす起因や作動因子になるとか物事の原因になるということを考えてしまうものだが、これは考えというよりは、実は、何かをしようとする時にシヨウ≒スルのチカラを感じているところのその感覚なのである。ただの感覚なのだからこれが実際にチカラになって何かを引き起こすということはないのだが、そうカン違いすると作用や作動といったタワゴト与太話になってしまう。何かが起きる動く生じるパコくヨガるネブるところの事象というもの、これはこれだけのものなのだが、その回りに特定の感覚がうろちょろしてやがって、我こそ当事象を起こしたものなりとヌカし出すものである。それがチカラを感じている感覚なのだが、どのぐらいの量と強度になっているかというのを快感覚から計測できる。そして快というのは【相手を屈させた】【わしがこんだけ勝っとる】という感覚である。事実は見ないにしても、そう感じることは感じる。さて一般に物理的事実を説明するときに抽象的にも「原因」と言ってしまうが、こいつは本当はもっと卑近で周知ななんか力関係的なドロドロしたものを言い換えているだけのものである。実に、《何かが何かを》どないするという時には、XガYヲと無味無臭の人畜無害のことが起きているのではない。そんなもんない。常に、勝ってやろう上に立ってやろうという権力争いが起きているのである。物理的事実がそもチカラ対チカラのケンカこれのみなのである。そういうのを客観的に見ても結局ナニガアリマシタコレガアリマシタの顛末報告を出来るだけにしかならないし、それも現実事象の記号にすぎないではないか。物体ノ運動などというものは記号にすぎず比喩的表現に過ぎない。例えば重力といのがあるが、これなども、顛末報告上の無味無臭なものなのではなくて、いやむしろ事象顛末の根底側のものである。根底と言えば根底に物理的チカラが有ってこれの定量というのが有るが、その定量が数々の生命現象に対応している。というのは何かというと、摂食であり生殖であり遺伝であり社会組織であり国制であり国体であり権力構造である。これらがチカラとチカラの増大欲求の現れなのである。こういった事象記述法だが化学現象に対しても通用するところがあるし、宇宙空間で起きていることもまたチカラの駆け引きである。宇宙というのは一定量のエネルギーが一定分布している場ではあるが、と言うよりも、エネルギーを極力ガンガン消費する場である。宇宙の実相とは、各チカラたちがノシ上がったろうイテコマしたろうとシノギを削りあっている修羅場であり、ヘタレのチンカスがびくびくぶるぶる保身保全に汲々している場なのではなくて、組織増大・規模拡張・軍備増強・ぶっ〇す!!のこ〇し合いの場である。こういう世界真実の前では因果的世界観とは何ともキレーゴトで嘘満載である。やれ《ゲンインAカラケッカBガ》だのやれナントカ法則だのやれ常数だの何だの。そういうものも有るにはあるだろう。事象を算出予測することも出来ることもあるだろう。統計ということもありうるだろう。しかしだからそれがどないしたんやというものである。起きたことは起きたことなのであってそこに規則性や法則や数的なものを持ち込むのはどこまで行っても手前味噌だ。この世界はチカラの一定量たちから成る。そのありさまはと言うと、他のチカラたち全員にチカラを行使しているということ、それだけだ。あんま原因コレコレが結果ナニナニをー云々を抜かし続けているとお前は肝心の事象のほうを見なくなってしまうぞ。そうやって原因君がサレタちゃんに対してとか妄念し出すようになるのだが、)

という断片のすぐ次に:

Können wir ein Streben nach Macht annehmen, ohne eine Lust- und Unlust-Empfindung d.h. ohne ein Gefühl von der Steigerung und Verminderung der Macht?

der Mechanismus ist nur eine Zeichensprache für die interne Thatsachen-Welt kämpfender und überwindender Willens-Quanta?

alle Voraussetzungen des Mechanismus, Stoff, Atom, Druck und Stoß, Schwere sind nicht „Thatsachen an sich“, sondern Interpretationen mit Hülfe psychischer Fiktionen.

das Leben als die uns bekannteste Form des Seins ist spezifisch ein Wille zur Accumulation der Kraft

: alle Prozesse des Lebens haben hier ihren Hebel

: nichts will sich erhalten, alles soll summirt und accumulirt werden

Das Leben, als ein Einzelfall: Hypothese von da aus auf den Gesammtcharakter des Daseins.

: strebt nach einem Maximal-Gefühl von Macht

: ist essentiell ein Streben nach Mehr von Macht

: Streben ist nichts anderes als Streben nach Macht

: das Unterste und Innerste bleibt dieser Wille: Mechanik ist eine bloße Semiotik der Folgen.

(Nietzsche, 1888,14[82])

 

(上にあがっていくとか強くなっていくとかいうプロセスは、チカラが着く・減る→心地よい・よくないというのと常にセットである。そうやって相手の上に立とう他よ

次回の記事に続く

 

人はなぜ走るのか?

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